弱者としての起業家を知ってください

多くの起業家は、不器用にしか生きられないので起業します。能力も、経験も、心構えもないままに独立起業して、孤独に社会と対峙します。そして多くが失敗します。

起業家は誤解されている

定義

議論の前に「起業家」を狭く定義しておきます。

起業家とは、個人事業と会社の「創業者」であり、従業員を雇用する事業主・経営者である。

この記事の議論は、より幅広い人々に当てはまるはずですが、議論の無用な混乱を避けるために、ひとまず上記のように「起業家」を狭く定義しておきます。

起業家の例

  • 「将来の大企業」を目指して起業したベンチャー・スタートアップ企業の創業者
  • 数名で受託開発しているシステム開発会社の創業者
  • コンビニのフランチャイズ・オーナー
  • ラーメン屋の創業者・店主

起業家の例外

他人を雇用していない事業主は例外とします。例えば:

  • 個人でiPhoneアプリを開発・販売して、雇われずに生計を立てている開発者
  • 有料メルマガや著書印税により、雇われずに生計を立てているブロガー

もちろん「例外の例外」があるはずです、上記の「例外」に当てはまる人が、本稿の「起業家」そのものである可能性はあります。しかし、繰り返しになりますが、議論の無用な混乱を避けるために、「起業家」を狭く定義しています。

この文章が主張しないこと

起業家は労働者よりかわいそうだ。

そういう主張ではありません。そのような「不幸比べ」に意味があるとは思えません。「〜より不幸だ」といったたぐいの主張ではありません。単に「弱者」的側面のあることを指摘するだけです。

すべての起業家は「弱者」だ。

そういう主張ではありません。そんなはずがありません。この文章では「弱者」たる起業家がいると指摘しているのであって、すべての起業家が「弱者」であるとは主張しません。

起業家はかわいそうな弱者だから保護すべきだ。

そういう主張ではありません。「弱者」だと指摘することが、すなわち「かわいそう」という感情や、「保護すべき」という政策提言を意味する訳ではありません。「弱者」たる起業家もいるのに、そう思われていない「認識の誤り」をただすための文章です。「起業するのは強い(能力がある/恵まれている)人間だ」という誤った先入観を改めて頂きたいのです。

この文章の目的は「弱い(能力がない/恵まれていない)人も起業している」という事実を知っていただくことです。いわば「起業家」が一枚岩ではないということを。それ以上でもそれ以下でもありません。

では始めましょう。

不可避な起業

起業家はなぜ起業するのでしょうか。起業は統計的には割に合いません。ほとんどが失敗するわけですから。

赤字が続き、事業に失敗して廃業に至るプロセスとしては、

  • 自分の給料はゼロにしてなんとか従業員への給料は払う。
  • マイホームを手放して資金繰りにあてる(会社の財産と社長の財産は同一)。
  • 銀行の融資限度を超えて金策に困り、クレジットカードのキャッシングも最大まで使い切り、しまいには消費者金融で借りた金を会社の運転資金にあてる。

といった行為に及ぶ場合があり、結果として傷が深くなります。事業の失敗によって「身ぐるみはがされる」ような事態に陥るのです。会社を潰したら翌月には違う事業を、などというわけにはいきません。

ここまで転落してしまう理由としては、従業員と違って社長は辞められないということがあります。銀行が会社への融資する際に社長の個人保証を求める制度には、社長に辞めさせない制度という面もあります。

このように不相応のリスクを引き受ける、不器用にしか生きられない人種が、起業家のなかにいます。野心から一念発起して起業するというよりも、「もはや起業という選択肢しかない」と思い詰めて起業する人がいます。

起業という選択の〈実存的不可避性〉(その人がその人である限りそうせざるを得ないということ)を理解してください。

多くのアーティストが「そのようにしか生きられない」ように、多くの起業家も「そのようにしか生きられない」のです。

例外

もちろん「せざるを得ない」のではなくスマートに起業する人もいます。そのうえ成功する人もいます。あらゆる議論に例外があるように、本稿にも例外があります。当然ながら「強者」の起業家もいます。しかし、例外がいたところで、本稿の価値は損なわれないはずです。

日本に中小企業は430万社あるそうです(中小企業庁)。個人事業主を入れれば「社長」はもっと多い。休眠会社・ペーパーカンパニーや、社長の重複もありますから、すべてが「起業家」ではないにしても、数百万人の「起業家」がいるのは間違いないでしょう。つまり数百万人の「弱者」がらいると言ってもよいと思います。

事業にはリスクがあり、「かならず上手くいく起業術」など存在しません。起業の大半は失敗します。ほとんどの起業は無謀です。そして、失敗すればどこまでも転落するリスクがある。

「弱者」とでも呼ぶべき危うい立場にいる数百万人の「起業家」の存在を知ってもらうために本稿は書かれました。言い換えれば、「起業家」という言葉に含まれる人々の多様性に気づいてもらうためです。

新産業を生み出す起業家の待望論

「経済の成長エンジンはイノベーションだ」「日本には起業家が足りない」「起業家を増やそう」という議論には問題があります。

一部のエリートベンチャー起業家だけ見ていないでしょうか。成功者だけ見ていないでしょうか。ビジネスエリートのキャリアの延長に起業があると思ってないでしょうか。それを前提に「チャレンジが大事」だの「失敗は自己責任」だの論じてないでしょうか。

大半の「起業家」はリバタリアンでもネオリベでもマッチョでもエリートでもない、どこか欠落して「ふつう」に生きることができずに起業せざるをえなかった、弱い人々だったりします。

起業する人の多くが、能力も、経験も、心構えもないままに独立起業します。そして孤独に社会と対峙するハメになっている。これはつらいことです。

起業家を社会の一員として認めて、共生を模索するなら、もっと社会的な応援や支援が必要だと思います。(もちろん現時点でも政府・自治体の起業支援制度はありますが...)

一つ指摘しておくと、失業手当などの「雇用のセイフティネット」と、再就職しやすくなる「労働流動性の向上」は、起業家のためになる政策です。社会でマクロに見れば、起業の大半が失敗するわけですから。さらに、起業家が従業員を雇用しやすくもなります。

こういった「弱者たる起業家」へのまなざし、包摂、制度が無い社会のままで、「次の成長産業を生み出してくれるマッチョでエリートな起業家」を待望し、その育成を論じるような議論は、歪(いびつ)だと思います。

起業はほとんど失敗するという前提で、起業に関する制度を考えてください。たしかに起業は経済にとって必要かもしれませんが、1人が成功するために失敗した99人の起業家は使い捨てですか?

※言うまでもなく「起業家は弱者だから特別に救済すべき」などという意味ではありません。前述のセイフティネットは、弱い立場にいる(起業家でない)労働者にとっても必要なものです。起業家を優先すべきだなどということではないのです。「起業を促進するならセイフティネットが必要だ」という主張は、起業家を労働者より優先していることにはなりません。セイフティネットは誰にとっても必要なのですから。

若き起業家の悩み

「上場」は起業家に希望を抱かせる「物語」です。

でも、その「物語」をもはや信じていない若い起業家が増えてきました。ベンチャーキャピタルなどが投資したいと思っても、起業家が「べつに上場しませんから」と言う。こんなコミュニケーションギャップが生まれています。

若い人が、会社に勤めるとしても、一生ひとつの会社、ひとつの事業にコミットすることが難しいと思うようになってきています。起業家なら、それが「自分の会社」「自分の事業」に置き換わります。

会社を作れば、会社と運命共同体になることを求められがちです。しかし、そんな腹は括れない。若い起業家(予備軍も)の実存的な悩みです。

この悩みを理解せずに「事業に腹を括れ」と言うのは無茶です。実存的な悩みを正面から受け止め、どう応えるか。ベンチャー投資家にも大変な時代です。日本のベンチャー投資は「起業家に腹を括らせる」ことを前提に成り立っていますから。

もはや「一大産業を生み出す起業家の登場を待望」するような時代ではなくなってきています。そのような古き良き時代の夢を見るより、むしろ小さな起業が無数に起こるフリーエージェント化、ノマド化の進行を肯定したほうがよいのではないでしょうか。

〔※ポストモダニスト風に言えば、「大きな物語」が崩壊したあとの世界で、個人はどのように生きるか、我々はどんな社会を作るか、という問題です。〕

起業家研究

もっと「起業家」の研究が進んでほしいと思います。

人類学者は「起業家の起業という選択の実存的不可避性」をアカデミックな題材として「発見」するかもしれません。起業家という「人種」の生態を観察し、記述し、理解して欲しいと思います。起業家版『悲しき熱帯』が書かれるかもしれません。

社会学者は「起業家」を成育環境・性格・経済環境などから多面的に分析した上で「起業家の社会的包摂」という問題を設定できるかもしれません。不器用にしか生きられない起業家という人々が、社会の一員として共生していくための政治的議論に向けて、学問的な貢献をして頂きたいと思います。

個性とは傷である

橋本治「いま私たちが考えるべきこと」:

「個性とは傷である」 個性を伸ばす教育と言う人の多くは、個性というものを誤解している。個性とはそもそも哀しいもので、そんなにいいものではないのである。........   一般性をマスターしたその上に開花する個性などという、都合のいいものはない。個性とは一般性の先で破綻するという形でしか訪れないーそういうものだからしかたない。個性を獲得するは「破綻」と「破綻からの修復作業」なのである。

いま私たちが考えるべきこと

個性とは苦しみである

個性とは苦しみである

「個性のもと」とは、一般性からは逸脱しドロップアウトしたところにあり、「役にたつ」とか「創造的」とは全く正反対の性質を含蓄する「破綻」なのです。さらに「破綻からの修復」という作業だって、その作業の最中にはそれが本当に「修復」なのか、逆にさらなる「破壊」なのかさえ本人には確信が持てません。そのうちほんの一部だけがたまたま他人や社会のニーズに合致しすることがあるのですが、そうなってやっとその作業が「破綻からの修復=個性」であったと事後承認されるのです。ですから言葉の定義上「使えない個性」というのはないのです。

著者について

2000年に私が「東京のウェブ業界人」になってから10年以上が経ちました。様々な起業家に出会ってきました。そのなかにはベンチャー起業家もいれば、のんびり個人事業主をしている人もいます。2006年からはGMO Venture Partnersというベンチャー投資会社の社外協力者になり、多くのベンチャー起業家と出会ってきました。私自身も起業家です。

ぜひこちらもご覧ください→起業家が他人資本で何度も挑戦するために

リンク

成功者の告白 (講談社プラスアルファ文庫)

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