ペナルティはインセンティブ/社内通貨/上司不要論/マネジメント2.0

社内に市場メカニズムを導入し、個々人が自己判断で行動する自由な会社に「上司」は不要。そういうマネジメント思想と、その実践に必要な要素についての考察。

zentakuさま、「企業は全体主義であるが故に独裁者を必要とする」へのコメントありがとうございました。

石橋さんの指摘の意図からずれているかもしれませんが、私個人の考えとしては、負のインセンティブはいきなり解雇にいかずとも減給やほかの方法をとることを考えたいと思っています。

あと負のインセンティブにモラールの維持を期待するよりも前向きなインセンティブが危機感を高め士気を高めるような仕組みも考えたいところです。

よく分かります。究極のペナルティが解雇ですが、もっと穏健なペナルティも必要です。

合理的経済人の理屈としては解雇だけでもいいのですが、生身の人間は行動経済学プロスペクト理論からいってもリスク回避的だと考えられます。従業員が「解雇を怖れて萎縮してしまう」としたら、企業の生産性だけでなく、むしろ創造性が失われることによって致命的です。私が「私は独裁者を必要としない自由な個人のネットワークを作りたい。つまり、全体主義ではない、新しい企業のかたちを模索したい」と書いたのも、経済生態系としてのシリコン・バレーのように創造的な環境を作りたいという目的です。そもそも我々ゼロベースは創造性を売る商売をしています)

では、もっと「穏健なペナルティ」と、それに対応したインセンティブとは何か?

一つの例として「社内通貨」が考えられます。同僚から「ありがとう」のスタンプをもらって集める仕組みなども広義の「社内通貨」と考えられるし、もっと本格的な「地域通貨」の仕組みもありえる。その定義は「定量的な対価」です。コピー取りやお茶だしのお礼に渡すもの。その作業の量や質によって対価が変わるとしたら、これは「貨幣」です。交換の媒介、価値の尺度、価値の貯蔵という機能を持っている。

ところで、そもそもはインセンティブ(ペナルティ)の話でした。そこで社内通貨という強力なツールを紹介したわけですが、もういちどインセンティブによるマネジメントの話題に戻します。

部下の望ましい行動を強化する(教科学習)ためには、記憶が薄れた後ではなく、何かがあった「その場」ですぐに称賛や叱責がなされるべきです。上司が部下の良い行動を見つければ、「その場」で称賛する。逆に望ましくない行動があれば「その場」で叱責する。この称賛と叱責を一分間で効率的にやる方法を示したのが『一分間マネジャー』です。

断っておきますが、私は「一分間マネジャー」のような素晴らしい上司ではありません。世の平均的課長よりはるかに上司力が欠けています。『はじめての課長の教科書』なんか読んでも、適性の無さはどうしようもないので、私には向いていないと開き直っている。

だから、属人的スキルではなくシステムで解決しようとしています。

まず、貨幣が紙幣やコインとして実際に物質化されていると面白い機能を持つ。それはフィードバックのリアルタイム性です。これはまさに「一分間マネジャー」のポイントでもあります。

同じことは現実経済のなかにもあります。店員が笑顔なのは、面接で笑顔の求職者を選んでいるからだけでなく、絶え間ないリアルタイムのフィードバックで笑顔が教科学習されているからであるはずです。客が注文する、店員が品物を渡す、客が「ありがとう」と言って金を渡す、店員が釣りを渡して「ありがとう」と言う、客も微笑む(ラポール)、このインタラクション(相互作用)に教科学習が働いている。コンビニと花屋の違い、東京と田舎の違いなどもあるでしょう。観光地・箱根湯本の店員は素敵な笑顔を持っていました。(データに基づかない印象論ですが)

また、社内通貨を正負の対称的なインセンティブ制度として設計することができます。ペナルティを「負のインセンティブ」と呼んだのは分かりやすさのためですが、これはミス・リーディングだったかもしれません。負のインセンティブ(ペナルティ)の目的は懲罰にあるのではない。正だろうと負だろうとインセンティブであることには変わりない。ペナルティはインセンティブです。これはレトリックではありません。むしろ「ペナルティ」という言葉を廃したほうが議論がすっきりします。

似たような例に「負の所得税」があります。

これは課税最低所得以下の人に最低所得との差額の一定率を政府が支払うものだ。たとえば最低所得を300万円とし、あるフリーターの所得が180万円だとすると、その差額の(たとえば)50%の60万円を政府が支給する。これなら最賃を規制しなくても最低保障ができるし、働けば必ず所得が増えるのでインセンティブもそこなわない。

勘違いしてました。「固定給+社内通貨」は「負の所得税」に近い制度であると容易に類推できるはずです。

税はペナルティでもありますが、インセンティブでもあります。言葉のイメージを無視すれば「ペナルティとインセンティブは正負の記号が逆である同じ変数」と考えた方がよいのではないかと思います。

ここまで議論してきたように、「社内通貨」という仕組みは有効です。その本質は社内に市場メカニズムを導入することであり、その目的は上司を不要にすることです。

大家族主義はヌルくない、むしろ厳しい - 戦略のみそ zentaku blog

他律に頼る組織よりも自律的な組織づくりの振り子の突端という会社という気がします。しかし、負のインセンティブに頼るよりもこちらの方が私は好きです。

他人や負のインセンティブに規律づけられるのと、自らを律するのと、どちらがヌルいですか?

私の意図はまさにそこにあります。自律がよいならば上司は不要です。全員が個人事業主になればいいではないですか。なぜ「家族主義的」な企業という組織に一生を捧げなければならないのですか?

家父長的(パターナリスティック)な企業には、部下の面倒を見る上司(親)が必要です。「家族主義企業の自律した社員」とは形容矛盾に近い。家族主義経営の成功している企業は、その微妙なバランスをかろうじて保つ努力をしている。

私が問いたいのは、「そもそも、それって生産的な努力ですか?」ということなのです。アメとムチ、叱咤激励、褒めて伸ばす、といった、あらゆる努力について。人をマネジメントするその人(マネジャ)自身は、経済に対してまったく付加価値を生んでいない。もし社内取引を定量化すれば、部下へのマネジメント・サービスによって「稼いでいる」ことが明らかになるかもしれない。しかし、社内取引は相殺されるので決算書には出てこない。あるいは従業員が「ボスがいたほうが仕事の成果が出るから、それは社内通貨で購入する」というなら、それは「社外からも購入できるコーチング・サービス」を買っているのであって、やはり「実態のよくわからないマネジャという存在」そのものに価値があるわけではない。

そこに「通貨」はない。ゆえに「価格」もない。つまり「自由市場」がない。公共サービスの対価として税金を払うのと同じです。我々は政府の仕事が民間より非効率であると知っている。従業員は上司・経営陣の提供する「サービス」が、市場で代替可能なサービスよりも効率的だと考えるでしょうか?

「上司を不要にする」とは、「上司が提供しているマネジメントという名のサービスを、市場で売買される商品にする」という意味です。「上司」がいまやっている仕事のすべてが無意味というわけではありません。ある人は社内コーチ(コーチ料1時間5,000円)と社内コンサルタント(相談料1時間10,000円)という二通りの肩書きで商売するかもしれない。そうやって「サービスに値札をつける」ことが「市場原理の導入」なのです。

これは本質的な問いなのです。もはや近代企業システムの矛盾を解消して「マネジメント2.0」へ移行すべき(※)だと主張します。もはや時代遅れの近代企業システムを捨てて、自らの手でバージョン2.0にアップグレードしたい。

※2009年7月29日追記:「べき」ということはないですね。いままで通りの企業の在り方がふさわしい人もいるはず。すべての人が変わる「べき」でもない。ただ、新しいやり方の恩恵を受ける人も、たくさんいるはず。

企業は全体主義であるが故に独裁者を必要とする (ZEROBASE BLOG)

目的が明確な成長段階や、全員が命運を賭けて一斉に行動を起こすべき転換期には、全体主義の効率性(自由の無さ)が有利に働くこともあります。そこには優秀な官僚と独裁者が必要です。これが冒頭で述べた「家族主義経営は限定的な状況下でのみ有効」という意味です。

フォーディズムという言葉があるように20世紀初頭の大量生産によって近代企業システムのひな形ができた。それを理論化・体系化してきたのがテイラードラッカーバウアーです。彼らの功績は偉大ですが、私の興味はすでに20世紀型マネジメントにはありません。

私は中間管理職という人間を不要にして、システム化することを模索しています。そのヒントは自由市場メカニズムにあります。個人事業主に上司はいない。人は上司がいなくても働ける。これは「会社」という概念の発明以前からの真実です。私は「会社」以前の労働観のルネサンスが必要だと主張しているのです。そもそも「近代企業として経営はどうあるべきか」といった議論には関心がない。「この21世紀において人々はどのように働くのが幸せなのか」を問うているのです。我々人類は、そろそろこの問題へ真剣に取り組んだ方がいい。

「経営の未来」に従業員の未来を見る - アンカテ

実をいうと、「エンプロイー(従業員)」という概念は近代になって生み出されたもので、時代を超越した社会慣行ではない。強い意思を持つ人間を従順な従業員に変えるために、二十世紀初頭にどれほど大規模な努力がなされ、それがどれほど成功したかを見ると、マルクス主義者でなくてもぞっとさせられる。近代工業化社会の職場が求めるものを満たすために、人間の習慣や価値観を徹底的につくり変える必要があった。

* 生産物ではなくて時間を売ること
* 仕事のペースを時計に合わせること
* 厳密に定められた間隔で食事をし、睡眠をとること
* 同じ単純作業を一日中再現なく繰り返すこと

これらのどれ一つとして人間の自然な本能ではなかった(もちろん、今でもそうではない)。したがって「従業員」という概念が--また、近代経営管理の教義の他のどの概念であれ--永遠の真実という揺るぎないものに根ざしていると思いこむのは危険である。(P163)

追記:紹介いただきました。ゼロベース石橋さんの「上司不要論」、21世紀のMBA - Zopeジャンキー日記

このエントリだけでなく、石橋さんのブログは「21世紀のMBA」みたいなところがある。いま本屋に並んでいるビジネス本にはまだ書かれていない、最新の経営学だ(今回のエントリでアンカテの「「経営の未来」に従業員の未来を見る」が引用されているが、アンカテにもそういうところがある)。

追記:「上司」が不要だとしても「先輩」や「師匠」は必要な場合がある。ここで述べたような企業形態においても「先輩」や「師匠」の役割は排除されない。

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