リスク、決定論、自由意志、注意義務

リスクという概念は、西欧において決定論(神の意志)と分かちがたい関係にあるようです。私も勉強中の身ですが、理解の範囲で書いてみます。

人の行動はすべて事前に神(創造主)によって決められているのか。それとも、人間の行動は事前に決められてなどおらず、自由な意志といったものが存在するのか。決定論(determinism)と自由意志(free will)に関する神学論争です。(余談ですが、デカルトは、自然の理解(科学)を神学から切り離し、純粋に数学・力学の問題としました。これがニュートンの科学革命につながります。しかし、パスカルはデカルトを批判しました)

自由意志は、あるのか、無いのか。自由意志があるとしたら、失敗の責任は、失敗した人にある。しかし、それが神の意志ならば、その人の責任を問うのは酷である。このロジックが、西欧社会(キリスト教圏)における「失敗に対する制裁のルール」に根ざしているようです。

故意ならともかく、多くの失敗は、意図的ではない、過失です。注意義務を果たしたかどうか、その線引きをするのは難しい。(余談ですが、投資銀行のCEOを公聴会で追究する、といったことは、政治的なパフォーマンスに過ぎない、法廷でやればいい、というのは言い過ぎでしょうか)

isologue - by 磯崎哲也事務所: 「わが国に経営判断原則は存在していたのか」

以前、「キリスト教のベースがない日本は『法化社会』になれるのか?」というエントリで書いた問題意識に共通するのですが、アメリカにおける経営判断原則は、本論文で取り上げているような契約理論や政策等から「演繹的に」導き出されたものなんでしょうか?
それよりも、アメリカに、キリスト教、ユダヤ教的なインフラが存在したことによる影響が大きいというほうが素直な考え方という気がします。

こちらでも申し上げたのですが、アメリカの人口の約4割は(程度の差はあれ、ダーウィンの進化論等を信じない、この世界は、「神によって設計」されているのだ、と考えている)キリスト教原理主義的な方々であります。さらに、裁判に携わる方々に占めるユダヤ教、キリスト教的なバックグラウンドを持つ人々の比率は、国民全体に占める比率より高い気がします。

「この世で起こることはすべて神の意志に基づくものであるから、人間がやるべきことは、その神の意志に従って出来る限りの努力をすることだけだ。(しかし、人間がいくら努力しても神の意志にはかなわない。)」

という考えがベースにあることは、「結果だけからは判断しない」という「思想」が生まれた一つの大きな要因ではないかと思います。

これも勉強中ですが、「宗教改革→プロテスタントの成立→清教徒(ピューリタン)革命→信仰の自由を求めた分離派がアメリカ大陸への移民となる(ピルグリム・ファーザーズ)→アメリカ独立」という歴史と、マックス ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に関心があります。

ケインズは資本主義と確率論に深い洞察を持っていた。資本主義にとって「リスク」の概念は不可分です。そもそも、株式会社の原型は、航海に出た船が沈没する「リスク」を分散するために複数のパトロンが資金を出し合う、というものでした。地中海などで海運による交易が盛んになることから生まれてきた知恵でしょう。

このように、経営判断原則の成立にはキリスト教の影響が強く存在した可能性は高いと思われますが、キリスト教の影響だけでアメリカにおいて経営判断原則が形成された、というわけではないと思います。

アメリカは移民によって形成されたので従来からの「しがらみ」が少ないとか、国土が広い等の理由から、他の国よりも個人個人の裁量(取りうる選択肢)の幅が大きい国だと思います。個人個人の裁量の幅が大きいということは、その結果の分散が大きいことにもつながっているはずで、結果が読めない度合い(リスク)の絶対量も大きくなるのは当然でしょう。とすると、論文にもあるとおり、契約理論的に考えて、プロジェクトが失敗に終わったからといって短期的なサンクションを発動しないほうが合理的なことが多いということになるかと思います。

つまり、経営判断原則という「思想」は、アメリカにおける「マクロ的なリスク量」との対比で合理的であったから形成されたのでしょうし、かつ、(宗教的)倫理観もそれを許容するものであった、(別のいい方をすると「共進化」した)のではないかということです。

西欧人は、神の存在を証明する努力(哲学・科学)の過程で、様々な発見をしてきましたが、そのうちの一つに「リスク」という概念があります。もしリスクが管理できるならーーー実際に可能だとされていますがーーー正しいリスク管理の手順を踏んだかどうかも注意義務に含まれてくる。これは未解決の課題です。

isologue - by 磯崎哲也事務所: 日本の企業にも「モンテカルロシミュレーション的意志決定」が求められるようになるのか?

もし、上述のように「Fortune 500社の85%の企業が購入」してるとしたら、もしかすると、米国における「経営判断の原則」なり「訴訟に耐えうる意志決定のエビデンス」というのは、こうしたモンテカルロシミュレーションのような、より網羅的でツッコミようのないものが要求されるようになってきているのかも知れませんね。

ピーター・バーンスタイン『リスク』という大著があります。副題は「神々への反逆」となっており、原題では"Against the Gods"です。リスクの研究に関する歴史は、気まぐれな神々の意志による災厄から、確率論的リスク管理によって人々を解放するという「神々への反逆」の歴史である。意欲的な「問題作」ですね。単に数学や経済学の歴史としてだけではなく、西欧の哲学・神学の歴史と並行して書いてみせたうえで「神々への反逆」と称するのは。

これに対して、日本の伝統的な考え方は、端的に言えば、「プロセスはどうあれ、結果がひどければ『切腹』」なんじゃないでしょうか。

余談:日本列島にも大陸から「塞翁が馬」や「人事を尽くして天命を待つ」ということば・諺がもたらされていましたが、日本人は失敗した人に厳しいと感じます。合理的帰結主義的には、もっと失敗に寛容な人々が増えることで、日本でもリスクテイカー、つまり起業家が増える。資本主義の成長エンジンは企業家精神です。とはいえ、身についた価値観のアンラーニングは難しい。ましてや自分のでなく、他人のですから。時間が必要なのでしょう。根気強く変えていかなければ。


本稿の結論:『リスク』を未読の方は、ぜひご一読を。

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