アレグザンダーの建築学とハイエクの経済学〜二人のオーストリア人に通底する懐疑主義とradical trustの精神

アレグザンダーとハイエクはヒエラルキー(ツリー)で解けない問題をセミラティス(ネットワーク)で解こうとした。その思想にウェブ社会のヒントがある。

江渡浩一郎『パターン、Wiki、XP ~時を超えた創造の原則』は「無名の質」を追い求めた三人の「設計者」たちの物語です。この物語の(私にとっての)主人公である建築家クリストファー・アレグザンダーは、計画主義を批判する懐疑主義精神の持ち主です。その思想遍歴は経済学者フリードリヒ・ハイエクを彷彿とさせます。

建築家アレグザンダーの思想

クリストファー・アレグザンダーという建築家に通底するのは、「設計者の認識能力・予測不可能性には限界がある」「自然、あるいは人々が長い時間をかけて作り上げてきた環境に宿る美を、少数の建築家が設計することで模倣することなどできない」という透徹した認識、一種の「懐疑主義」の精神であると思います。現実世界の複雑性に対する謙虚な姿勢と、合理主義・無邪気な人間理性への信頼(理性万能主義)への懐疑。

その発端はアレグザンダー自身の挫折だったかもしれません。当初は数学によって建築の設計原理を体系付けようと試みたアレグザンダーでしたが、それは失敗に終わりました。そのとき彼は謙虚に現実と向き合い、あることに気付いたのです。

・・・余談ですが、この「気付き」は、従来のアプローチを根本的に見直すきっかけとなった意味において、認知心理学者ジェームズ・ギブソンが「ビジュアル・ワールド」に目覚めた瞬間にも似ているように思います。

アレグザンダーは、建築の要素を徹底的に分解し、ツリー(階層)構造として解析しようとしましたが、そのように分解することは適切ではないと気付きました。現実の都市は、要素間の複雑な「ネットワーク」により機能しており、要素を役割でグループ分けしていく過程で「複数の役割グループに所属する要素がある構造(セミラティス構造)」が浮かび上がってきます。ツリー構造では表現しきれません。また、ツリー構造に回収するために要素間の関係性を切り捨てると、人工都市のよそよそしい感じが生まれてしまうと考えました。

そこで自分のアプローチが有効ではないと知ったアレグザンダーは諦めなかった。小手先の改善ではなく、根本的にアプローチを見直したのです。それは「トップダウンの設計を捨て、ボトムアップに設計する」というアプローチでした。これは「将来にわたる完全な予測(知識)をもって全体を計画する」という近代的な専門家像、モダニズムの否定でもあります。

アレグザンダーは、人為的設計によらない自然都市(人工都市への対立項)の美しさや価値を「無名の質」と名付け、それを実現する建築の方法を模索し始めます。設計によらず生み出される美を、設計する、という一見矛盾する試み。

これは非常に難しい問いです。自然都市は自然にできたのだから自然都市なのであって、それを「意図的」に繰り返せば人工都市になってしまうのではないでしょうか。

『パターン、Wiki、XP ~時を超えた創造の原則』 P42

・・・余談ですが、アレグザンダーは自然都市が備える質を「無名の質」と定義しました。これは定義することで全体性(wholeness)が失われることを危惧し、あえて定義しなかったということでしょう。なお、こういう文脈での「質」や「価値」という言葉の意味がとりにくいのは、適切な言葉がないからでしょう。「質」は"quality"、「価値」は"value"という英語の意味のまま理解するのが適切だと思います。

アレグザンダーは、都市や建築を階層(ツリー)構造として認識・設計することを批判し、セミラティス構造として認識すべきだとしました。建築家がトップダウンで設計し、また設計時に設計を固定化することを批判しました。設計はボトムアップに行われ、漸進的・生成的に成長する建築を目指しました。工事中にも設計は変わりうるし、つくった後でも不具合があればどんどん直せばいいと考えました。そして、そのプロセス全体に、利用者自身が参加すべきだと考えました。

一人ないし少数の建築家が設計するというのではなく、利用者自ら主体的に設計に参加する。そのために彼は「パターン言語」という、建築家と利用者のコミュニケーションツールを開発します。ただ、パターンを用いた利用者主導の設計は、行き当たりばったり、継ぎ接ぎだらけで全体として「けばけばしい」建築になる恐れもあります。アレグザンダーはそれも自分の理論における深刻な問題だと考え、解決策に取り組み、"The Nature of Order"(秩序の本質)という書にまとめます。

このようにアレグザンダーの思想遍歴を見ていくと、「全体を設計する近代的主体・エリートとしての建築家像」「建築家と利用者の関係」を解体するモダニズム批判(ポストモダニズム)の精神を感じます。

経済学者ハイエクの思想

このようなアレグザンダーの思想遍歴は、20世紀前半から社会主義体制の破綻が明らかになるまで続いた経済学上の論争を彷彿とさせます。オーストリアン(オーストリア学派)と呼ばれる経済学者たち(ミーゼスやハイエクなど)による計画経済批判、設計主義批判を。

1943年にフリードリヒ・ハイエクは『隷属への道』という本を執筆します。理性や科学によってすべてが計算・設計・解決できるとする合理主義精神を「計画主義(設計主義)」と呼んで批判しました。これは当時の異端で、ハイエクは経済学者としての信用を失いかけます。

当時、進歩的な知識人・経済学者の間では、「完全な知識・情報と、賢明な当局によって、中央集権的に経済の計算・計画は可能である」という考え方が主流でした。中央集権の経済運営こそ望ましい形態であって、英国や米国では頭の固い保守主義者のせいで社会主義が実現しない。知識人たるもの共産主義や社会主義に共感する左派であって当然だったのです。ハイエクは孤独に反論し続けました。

彼は生涯を通じて、社会主義と新古典派経済学に共通する「合理主義」と「完全な知識」という前提を攻撃し続けた。その結果、彼は主流の経済学からは徹底して無視され、「反共」や「保守反動」の代名詞として「進歩的知識人」から嘲笑されてきた。

社会主義体制における経済運営が行き詰まり、東側の物資不足が明白な事実と認識されたことによって、資本主義経済(アダム・スミスに始まる古典主義経済学)の優位性が再認識され始めます。そして、ハイエクの再評価も始まります。

・・・余談ですが、戦中戦後を通じて進歩的知識人(左派)から無視され冷笑されてきたハイエクは、1970年代になって再評価されました。1971年にハイエクはノーベル経済学賞を受賞します。また、経済が活力を失った深刻な「英国病」からの脱出を託され、マーガレット・サッチャーは首相として構造改革に取り組みますが、そのバイブルはハイエクでした。

ハイエクは「個々人が持つ部分的で不完全な情報が、市場で集約され、全体としては驚くべき効率性で資源が効率的に利用される」と考えました。つまり「市場の情報処理機能」に光を当てました。市場がそのように機能するためには、人々が取引を強制されず、各々が自由に取引できる必要があると、自由市場を擁護しました。市場の情報処理機能という観点から、計画経済に対する市場経済の優位性を唱えたのです。

ハイエクは集産主義と計画主義には市場のどの参加者よりも一部のエリートの方が賢明であるという前提があると考えた。だが実際においては市場の情報や知識をすべて知ることは不可能であり、部分的な情報を熟知する参加者達が参加する市場こそがもっとも効率のよい経済運営の担い手であると説いた。

また、ハイエクは(市場を代表とする)秩序は、時間をかけて連続的・漸進的に「進化」すると考えました。その立場から、不連続な社会変革を目指す、社会主義の革命志向を批判しました。

人間はその本質において、誤りに陥りやすい存在であり、人間社会は「漸進的な発展(改良、進歩)」が期待されるのであって、もし理性を乱用し「革命的な進歩」を目指した場合、文明そのものを破壊する。

ハイエクは「自生的秩序」という概念を唱えます。人為的な設計によらず、人々の長い生活の営みから生まれてきた秩序は、一見そこに合理的な理由が無いように見えても、それで上手くいっている理由があるはずだから、安易に人の手で壊してはならないと。

・・・余談ですが、玄人の方へ: これを無根拠な伝統礼賛的保守主義だとして批判する人もいて、たしかにその批判があたる場合もありそうですが、進化論(ESS)・ゲーム理論(ナッシュ均衡)によって理由付けられる場合も多いのではないかと思います。ただし、当時のハイエクは「革命の阻止」を使命として言論活動をしていたわけで、本来の客観的学者の立場を離れて、保守的スタンスから「政治的パンフレット」として言論していた、という推察もフェアな見方だと思います。

自由は全くの無秩序・無政府状態では生まれず、自由を可能にするためには法秩序が必要だ、とハイエクは考えました。自生的秩序を重んじる(そして英国生活も長い)ハイエクは、コモン・ローという法体系を持ち上げます。不文律と、長い時間をかけて積み上げられた判例のデータベースによる司法のあり方を。

ここにおいてハイエクは「完全な知識を前提とした設計への批判」を主張しながら、「自由を可能にする制度の設計」を唱えるという立場になります(これはハイエクの矛盾だと批判する論者もいます)。経済学者として出発したハイエクでしたが、晩年は法哲学者として自由を可能にする制度についての研究し、その成果は『自由の条件』や『法と立法と自由』といった大著にまとめられています。

アレグザンダーとハイエク

二人の思想遍歴は、多くの点で重なって見えます。驚くべきほどに。

  • キャリアの早い時点で「合理主義的な計算・設計の不可能性」に気付く。
  • 「ツリーではなく、ネットワーク(セミラティス)」は「中央集権の計画経済ではなく、自由な市場経済」に。
  • 「利用者が設計に参加することによるボトムアップのアプローチ」は「部分的な情報を持つ人々が市場で自由に取引することによる(中央集権的でない)経済運営」に。
  • 「漸進的に成長する都市・建築」は「進化論的な市場観」に。
  • 「自然都市が備える無名の質」は「コモン・ロー、自生的秩序」に。
  • 「自然都市を意図的に設計すれば人工都市になってしまう矛盾」は「設計主義を批判しつつ自由を可能にする法体系の設計を研究する矛盾」に。
  • そして、研究生活の終盤に「まったくルールのない自由放任ではダメで、いかなるルールによって秩序を保つか」を研究している点。

二人とも、近代的な理性万能主義、傲慢な設計・計画を批判する精神の持ち主です。これは伝統的な懐疑主義の精神で、二人がオーストリア出身である点に理由を求めても間違ってはいないでしょう。ハイエクは1899年生まれ、アレグザンダーは1936年生まれと、ずいぶん年が離れていますが、ともにオーストリア(ウィーン)出身です。ハイエクは直接に、アレグザンダーはおそらく両親を通じて、世紀末ウィーンの懐疑主義的な精神風土の影響を受けたはずです。

・・・余談ですが、その後イギリスとアメリカに移り住んだ点も奇妙に一致します。

近代的専門家像への批判

それぞれの専門分野で近代的合理主義を批判したアレグザンダーとハイエクに共通するのは、懐疑主義という「人間理性(万能主義)への自己批判」です。対象の絶望的なまでの複雑さを認識し、それを謙虚に受けとめ、「そのうえでどうするか」を考えること。現代社会は複雑であり、少数の専門家・エリートが全体を設計することは不可能であるという事実を認めた上で、「では専門家に何ができるか」と考えること。

建築における専門家とは建築家、経済における専門家とは経済政策を担う高級官僚のことです。その近代的な「専門家像」への解体を迫ります。しかし、専門家としては、特権的立場から引きずり下ろされることへの抵抗感がある。

ベックは、アレグザンダーの失敗についても書いています。建築家という職業はあまりに昔から存在しており、社会的な役割が固定化してしまっています。建築家は設計する建築の詳細を最終的に決めるのは自分たちだという態度を放棄せず、利用者はそのような状況で自分たちの要求を適切に伝える術を知りません。

『パターン、Wiki、XP ~時を超えた創造の原則』 P105

この問題を解決しようとして、アレグザンダーは「パターン言語」を開発したのですが、それほど普及しませんでした。専門家には専門家としての自負があります。そして、それが正しいと思い、あるいは親身になるからこそ(パターナリズム)、素人にそれを押しつける性向があります。そういう専門家達が社会主義では官僚(テクノクラート)となって社会を自分たちの理想通りに設計しようとします(ハイエクの警鐘です)。このような「専門家批判」という精神でも、アレグザンダーとハイエクは共通しています。

我々のほとんどは、なんらかの面において専門家です。そして「専門家は素人にルールを押しつけたがる」ものです。これには逃れがたい誘惑があります。(略)

この誘惑は、社会主義への誘惑と根っこが同じです。専門家が描く理想的社会が実現できないのは、その専門的見解に同意しない素人という邪魔な存在のせいです。そこで専門家は独裁によって社会主義の実現を目指す。社会主義独裁政権が実現したときには、テクノクラートが実権を握り、存分に腕をふるう。反対する人々を弾圧してでも、理想社会の実現を推進する。20世紀にこういう歴史が繰り返されましたが、その根っこには「素人にルールを押しつけたがる」という専門家の性質がある。

自由主義のボトムアップ・アーキテクチャ

とても設計しきれないほど複雑な対象(建築・都市や経済など)を、いかに望ましい状態へと人為的に導くか。その方法として、アレグザンダーとハイエクの二人が共に掲げるのは、ボトムアップ・アプローチです。そこには無名の個々人への信頼があります。都市や建築は、どんな専門家よりも利用者自身が望ましい設計を考えるべきだ。経済は、どんな経済学者や官僚よりも、個々人が自分の売る商品・労働力、需要・ほしいもの、お金の使途について考えるべきだ。つまり自由主義・個人主義の精神。このような無名の個々人への信頼は、ティム・オライリーが"Web2.0"の「デザインパターン」として示した"radical trust"(根本的・過激な信頼・性善説)そのものです。

オンライン百科事典の「Wikipedia」は、誰でも記事を投稿し、編集することができるという思いもよらないアイディアに基づいている。Wikipediaは信頼に立脚した進歩的な実験であり、「目玉の数さえ十分あれば、どんなバグも深刻ではない」というEric Raymondの格言(もともとはオープンソースソフトウェアの文脈で語られたもの)をコンテンツ作成に適用している。

アレグザンダーやハイエクの思想は、じつに「インターネット的」です。無数の人々が自分にとって望ましい結果を目指して自由に活動することで、結果として全体がうまく調和して機能するという思想(もちろんそこには秩序を保つ最低限の規則が必要だとして、それも彼らは研究しました)。その前提には無名の個々人への信頼(radical trust)がある。彼らが目指したのは、個々人の自由を最大化することで全体・系としての複雑性を克服しようとするアーキテクチャだったといえるでしょう。

膨れあがる複雑性に対して近代的(モダン)な方法で対処できなくなった分野において、アレグザンダーやハイエク、あるいはインターネットに学ぶことで、新たな活路を見いだすことができるかもしれません。この思想は普遍的です。多くの専門分野において、個々人(非専門家)への信頼に基礎を置き、「専門家」を解体し、専門家を人々の自由なコラボレーションを促進するファシリテータと再定義し、メタな設計(設計プロセスの設計)を通じてボトムアップのアーキテクチャから無名の質/自生的秩序が立ち現れるように促す。そのようなポストモダンな理論体系ーバージョン2.0ーを生み出すことができるはずです。

アレグザンダーが建築の世界で無名の質を備えた建築を追い求めたように、ベックは無名の質を備えたソフトウェアを目標とし、カニンガムは無名の質を備えたWebサイトを目標としたのだと言えるのではないでしょうか。

『パターン、Wiki、XP ~時を超えた創造の原則』 P143-144

・・・余談ですが、私はいま、企業のウェブサイトをアレグザンダー的なボトムアップ・アプローチで、漸進的に成長し続けるアーキテクチャにできないか模索しています。Web制作会社やWeb担当部署だけでなく全従業員を巻き込む形で、Wikiなどのソフトウェアを基盤としたアーキテクチャです。個々のスタッフが、自分に関係のある情報に誤りがあれば訂正でき、伝えたいことがあれば自分で追加できる。このような企業ウェブサイトのあり方を模索しています。もし興味のある企業Web担当者、企業経営企画部、企業経営者の方などいらっしゃいましたら、ご一報いただければ幸いです。私と共にゼロベース思考しませんか?

Powered by POPit
Powered by POPit


Powered by POPit

追記(2009-10-10): 同じようにアレグザンダーとハイエクをつなげて考えている方がいらっしゃいました。

社会の秩序は、自生的に(自己組織的に)成長することが重要なのであって、外から誰かがつくるということなどできない。だからといって、なんでもありというわけにはいかない。そこで、人びとの自由や創造性を阻害することなく、秩序を「育てていく」ための工夫が必要になる。ハイエクは抽象的な「制度」に着目し、アレグザンダーは抽象的な「パターン」に着目する。着目点こそ異なるが、目指すところは一緒なのだ。このほかにも、ハイエクとアレグザンダーには、秩序や知識の議論において共通点が多い。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://zerobase.jp/mt/mt-tb.cgi/446