戯曲の「書き換え」や即興演劇とブレイン・ストーミング

インプロビゼーション(即興演劇)とブレイン・ストーミングのアナロジー。

私は次のような現象に関心があります。ある戯曲が、稽古や上演を通じて、つまり脚本家・演出家・役者・観客のインタラクション(相互作用)を通じて「書き換え」られていく過程。その過程の分析から「共創」へのヒントが得られるのではないだろうか、と直感しています。

具体的構想として、インプロビゼーション(即興演劇)のワークショップによって、ブレイン・ストーミングという共創の場における、即興性や「脱主体的」無責任さを引き出せないだろうか、と考えています。

例えば、「ただの思いつき」を、「こんなことを言ったらどう思われるだろう(検閲)」という心配なしに発言できる場。それは「発言者と発言を切り離して受け取る場」だから、それを前提に「無責任に発言できる場」であります。ブレイン・ストーミングの環境として望ましい場のありかたです。

現実社会におけるお互いの関係とは切り離され、何をしても安全な「砂場(sandbox)」。それは、演劇の舞台に似ています。

ブレイン・ストーミングでは、他者の発想に自分の発想を「かぶせて」いく、その絶え間ない連鎖、コミュニケーションの「フロー状態」において、だんたん「アイデアが誰のものか」はどうでもよくなり、素晴らしい果実が得られます。

これは、インタラクションを通じて物語が「書き換え」られるということです。主体的作者の存在が徐々に消え、「脱主体的」とも言える状態・作品になっていく過程です。

そのようなブレイン・ストーミングが成功だと考えています。そして、それは即興演劇に似ています。

また、ここで見た戯曲やブレイン・ストーミングのあり方を、「インタラクションを通じて脱主体的に書き換えられていく物語」という見方をすれば、レヴィ=ストロースが研究した「神話」にも似ています。

作者不詳で、口承の過程で変化していく、脱主体的な知の集約と創造。知の集約というのは、その過程で多くの人びとの発想(アイデア)が取り込まれ、取捨選択(進化論的淘汰)が起こり、最適な形として残っていく、という過程を指しています。

私はこのようなアイデアから、「戯曲の構造分析」「独創が共創に転換し、作者の主体性が失われていくプロセスの解明」というのが、なかなか面白そうだと思っています。私は不勉強なので、「戯曲の人類学的研究」なるものがあるのかどうか知りませんが。

このようなアイデアを得るきっかけになったのは、東京学芸大学の高尾隆氏によるインプロビゼーション・ワークショップでした。

この思いつきは、的外れかもしれませんが、この半年ほど私の頭のどこかで一定の領域を占めていました。これからも考え続けていくことになりそうです。

関連:

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://zerobase.jp/mt/mt-tb.cgi/718