ソーシャル・メディアで「お互いに顔の見える商取引」が復活します

ソーシャル・メディアで「お互いに顔の見える商取引」を推進したい。商取引に人間性・人間味を取り戻したい。それってウェブにできる「善いこと」だと思うんです。

【編集註:もとのタイトルは"「ソーシャル・コマース」の公共的価値は「入替不可能な人間関係に基づく商取引」を復活させること"となっていましたが、堅苦しいので変えました。】

ソーシャル・コマース→入替不可能な人間関係に基づく商取引

前置き

そこそこ長い話をします。約5千字の文章です。本題から入らないので回りくどく感じるかもしれません。日本人の平均読書速度は400〜600字/分らしいです。読むのに10分くらいかかりそうですね。時間のあるときにでも読んで頂けると嬉しいです。では本文をどうぞ。

「市場」というフィクション

「ソーシャル・コマース」について考えているうちに、「マーケティング」という言葉へ違和感を持つようになりました。

「マーケティング」の人間観は、近代経済学が抽象化・匿名化した「経済人」(ホモ・エコノミクス)なんですね。「経済人」は「顔の無い人々」です。そういう「経済人」が「市場」で商品を売買する、という抽象的な議論をしてきた。

いきなり難しい話をして恐縮ですが、ちゃんと読めば伝わるように丁寧に書きますので、ついてきて頂けると嬉しいです。分からなかったらコメントしてください。

言うまでもなく「しじょう」と「いちば」は別の概念です。

「市場」って、最初は学問上の道具として作られた「フィクション」だったと思うんですね。数学的に扱うためには現実の世界を抽象化・モデリングしないといけませんから。

最初に「市場」という概念を作った経済学者達は、「それくらい単純化したほうが議論しやすいよね」とか言って道具として使うようになったんじゃないでしょうか。ベタに「市場がある」「市場は実体だ」とか思ってる人はいなかったんじゃないかなあ。

そのへん理解してない人がいたら「チミチミ、市場なんて実在してないから(笑)」「実際の人間って、もっと複雑だから(笑)」とか半笑いで指摘されてたと思うんですよね。

「マーケティング」の人間疎外

でも、いつのまにか「市場というものが実在する」「市場は実体である」と考える人が出てきたんでしょうか。20世紀に経済活動は「マーケティング的」になってきました。

結果として「人間疎外」が起こった。商売から「人間性が失われた」という意味です。

言うまでもなく「マーケティング(marketing)」と、経済学の「市場(market)」には密接な関係があります。

「マーケティング」では「一人ひとりの人間」ではなく「かたまり(マス)」として人間を取り扱います。その「かたまり」を属性(年齢、性別、年収、...)で分類していくのが「セグメンテーション(分割)」です。これが「マス・マーケティング」ですね。

属性で記述される(属性化される)ことによって買い手は「顔」を失って、匿名化されます。そのとき売り手自身も顔(唯一性、ユニークネス)を失います。

マーケティングでは、市場/買い手のかたまり(マス)を属性で分割して、「ターゲット(対象)」を決めたうえで、自社の「ポジション(位置)」を決める。この「ポジション」は属性で定義されるので、売り手は自らを属性化していることになるわけです。

競合のいないポジションをとれば「ユニークなポジショニング」なのですが、後発が同じ「ポジション」に参入してきたら、もう「ユニーク」ではないんです。あくまで一時的(テンポラリー)な「ユニークネス」(唯一性)に過ぎない。それって本質的には「ユニーク」じゃないですよね。

たとえ話で説明します。「君のように若くて賢くて美しい女性は一人しかいない!」という理由で好きになったあとで、もっと若くて、もっと賢くて、もっと美しい女性が出てきたら乗り換えるのか。乗り換えるなら「ユニーク」ではないわけです。入替可能な関係性といってもいいです。「若いから」「賢いから」「美しいから」ではなく「あなた(という存在)を愛してる」のが「ユニーク(唯一)」な愛情だし、入替不可能な関係性ということです。

関係性は相互的です。簡単に言えば「お互い様」。自分が相手を入替可能だと思ってるときは、相手にとっての自分も入替可能な存在になってしまいますね。例えば「もっとイケメン」「もっとたくましい」「もっと金持ち」な男に奪われてしまうかもしれない。逆に「入替不可能な関係性」とは、お互いが相手を「入替不可能」と思っている関係性のことです。

で、そういう意味で「ユニーク」で「入替不可能」なのって「ポジショニング」では実現できないと思うんですね。例えば格安PC通販で急成長した「デル・モデル」は当初「ユニークなポジショニング」でしたが、もはや模倣されまくってユニークでもなんでもないわけです。

「ブランディング」と「マーケティング」は水と油

買い手を属性化・匿名化する「マーケティング」の推進は、売り手自身をも匿名化してしまう。その「じり貧」を避けるために「ブランディング」という方法が開発されたのでしょう。マッチポンプですね。

なかなか「ブランディング」が上手くいかない会社は多いと思うんですよ。その理由は「ブランディング」が「マーケティング」とは水と油の関係だからではないかなあと。

人間を属性化・匿名化する「マーケティング」と、唯一性(ユニークネス)をイメージしてもらうための「ブランディング」。大元の考え方(原理)からして真逆なんじゃないかなあ。そんな風に思います。

「顔の見える商売」に抜け落ちてきたもの

「商売」の人間性を回復したいと思います。そのためには「顔の見える商売」を復活させる必要があると考えています。

これまでも「顔の見える商売」という思想がさかんに言われてきました。「御社のブランド・パーソナリティを伝えるために『顔の見える関係』を作りましょう」といった「ブランディング」の文脈ですね。

でも、そこで「顔を見せる」のは「売り手」だけなんですね。これまでは「売り手の顔が見える」ことだけが重視されてきました。

「売り手」だけが「顔を見せる」ことで「顔の見える商売」って言えるのでしょうか。それって「人間的」でしょうか。そんな疑問が出てきたのです。

「手売り」で買い手の顔も見える関係性に

「売り手」が顔を見せるだけでは足りない、とぼくは思います。「買い手」の顔も「売り手」に見えるようでなくては。それが対等な人間関係というものでしょう。

つまり「手売り」の復活が必要だと思うのです。

もののたとえで「手売り」と言ってるので、「通販はダメ」と言いたいわけではありませんよ。でも「対面」には大きな意味がある、とも思います。ソーシャル・メディアが発展しても「生身で向き合う事」は大事です

ぼくは「ソーシャル・コマース」という言葉を「人間関係に基づく商取引」と定義します。言い換えると「お互いに顔の見える商取引」です。

余談ですが「ソーシャル(social)」という言葉は「人間関係に基づく」「社交的」などの意味ですね。「ソーシャル・メディア(social media)」は「社会的メディア」ではなく「社交的メディア」「人間関係メディア」です。

漠然とした「かたまり」として「社会」のようなものを考えるのは、じつは「ソーシャル」と大きくズレている考え方ですね。「ソーシャル」を「社会」と訳したり解釈したりするのは、止めた方がいいと思います。少なくとも「ソーシャル・メディア」などの文脈では。

「ソーシャル・メディア・マーケティング」と「ソーシャル・コマース」の本質的な違い

ちまたでは「ソーシャル・コマース」という言葉が流行っています。

しばしば買い手の顔も見えていないのに「ソーシャル・コマース」と呼んでいる場合が多いようですね。ぼくが定義した意味での「ソーシャル・コマース」とは別物ですね。

例えば「ソーシャル・メディアで特価情報を流して新規客を開拓する」のは「ソーシャル・コマース」ではない可能性が高い。「ソーシャル・メディア・マーケティング」ではありますが。

「特価」で来るお客さんは価格という属性に注目するし、売り手も自身の唯一性を捨てて価格という属性だけを伝えている。要するにマーケティング、セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニングなんですね。

その先に「ソーシャル」な人間関係はあるのかなあ。たぶん無いと思うんですよね。「特価で一度買ったご縁で末永いおつきあい」なんて聞いたことないです。

ソーシャル・メディアを「マス・メディア」のように使って「マス・マーケティング」のようなことをしてるのを「ソーシャル・コマース」とは呼びたくないですねえ。過渡期には言葉が混乱するものですが、ちゃんと別物には別の名前を与えて区別した方がいいと思うんです。

「ソーシャル・メディア・マーケティング」は「ソーシャル・メディアを用いたマーケティング」ですね。だからFacebookやTwitterを使っていれば、やってることが「マス・マーケティング」でも「ソーシャル・メディア・マーケティング」と呼んでいい。これは妥当です。

大事なのは「ソーシャル・メディア」を使っているからといって「ソーシャル」(人間関係に基づく)とは限らない、ということです。

「マス・マーケティング」の思想のままでソーシャル・メディアを使って「マーケティング」しているなら、それは「ソーシャル・メディア・マーケティング」であって、ぼくが定義した意味での「ソーシャル・コマース」とは別物なんです。

べつにぼくが「ソーシャル・コマース」という言葉を「所有」してるわけじゃないから、みなさんがぼくの定義に従う必要はないんですけどね。

買い手と売り手の入替不可能な関係性

「ソーシャル・コマース」(人間関係に基づく商取引)はウェブで徹底的に価格比較する「賢者の買い物」の対極にあります。

「匿名の消費者」から「顔の見える買い手」になることで、売り手と買い手は「のっぴきならない人間関係」になります。入替不可能な関係性です。

「顔の見える/顔を見せる買い手」は「顔の見える/顔を見せる売り手」から買うときには、価格だけを見たりしませんね。ウェブで1割安く買えるとしても「その人」から買う。売り手も面倒くさいサポートを親身になってする。

このような「入替不可能な関係にもとづく商取引」がソーシャル・コマースの未来形だと思ってます。

ソーシャル・コマースは商売の原点回帰

ソーシャル・コマースの「未来形」は、じつは「従来形」なんです。昭和の商売って今よりずっと「ソーシャル」だったわけで。言ってみれば「商店2.0」みたいな感じです。

たとえば昭和の電器店。「無料で電球交換に来てくれるから、テレビを買い換えるときも石橋さんのところで」という売り手と買い手の関係性。これは入替不可能な人間関係に基づく商取引であって、ぼくの定義する「ソーシャル・コマース」そのものです。

「ソーシャル・コマース」の本質は「ソーシャル・メディア」には無いんです。商売の在り方や思想の問題です。メディアは人間の能力を拡張するだけ。能力ではなく、在り方や思想の問題として「ソーシャル」かどうかが問われるのです。

「ソーシャル」(人間関係を重んじる、社交的)でない人は、ソーシャル・メディアを使っても「ソーシャル・コマース」できません。「ソーシャル・メディア・マーケティング」はできるかもしれませんが。

さらに大事なのはソーシャルな価値(観)を重んじることが買い手にも要求されるんですよ。買い手が「電球交換しに来てくれるし、値段なら新宿の量販店が安いけど、まあ石橋さんのところから買おうかね」という態度でないと、ソーシャル・コマースって成立しないわけです。ウェブで最安価格を検索してその瞬間に一番安い売り手から買うような人は「ソーシャル・コマース」できない。

「ソーシャル・コマースの進化」は、ぼくから見ると「バージョンアップしながらの原点回帰」なんです。「商店2.0」へのバージョンアップで追加された新機能は、もちろん「ソーシャル・メディア」です。

心地よい商取引の前提になる近接性と包摂性

ソーシャル・メディアが無かった時代のソーシャル・コマースについて考えると、共同体(コミュニティ)や結社(アソシエーション)の近接性・包摂性に注目することができます。

難しい言葉を使ってしまいましたが「近所」「顔なじみ」「知り合いの知り合い」という「近さ」が「近接性」です。「近接」は「近くて接してる」ということ。住んでる場所が物理的に近かったり、人間関係的に近かったり。

そして「包摂」とは「包み込む」「受け入れる」ということ。ソーシャル・コマースは近接性を前提とした日々のおつきあい(社交)の延長にあります。お互いに相手を受け入れ、お互い様の精神、持ちつ持たれつの精神で助け合う「相互扶助」があります。これが「包摂性」です。昔の商店主と地元住民の関係って、こんなふうだったと思うんですよねえ。

さっき「ソーシャルな価値(観)を重んじることが買い手にも要求される」と書きましたよね。「電球交換しに来てくれるし、値段なら新宿の量販店が安いけど、まあ石橋さんのところから買おうかね」っていう買い手の態度。これを可能にするのは「お互い様の精神」「持ちつ持たれつの精神」なんですよ。

スロー・フードとソーシャル・コマース

ソーシャル・コマースは「スロー・フード」に似ていると思いませんか?

買い手と売り手が取引毎に取引相手を変えるのではなく、顔の見せる人間関係に基づいて、長期的な信頼関係に基づいて、安心して取引できること。これを農業でやればスロー・フードですね。

ここで「スロー・コマース」とかまた言葉を使っても仕方ないので「ソーシャル・コマース」でいきますが。気分としては「スロー」ですね。

「ソーシャル・コマース」がもっと進化すれば、「共同体で顔馴染みの商店から物を買うような体験」になっていくはずです。それは「ソーシャル・メディア・マーケティング」とはまったく別物です。

いや、これは未来予測ではなく、そのような未来を作りたいというぼくの意思です。「マーケティング」から「ソーシャル・コマース」へ。商売に人間性の回復を。

余談

先日こういう内容をツイートしたら、たくさんの「お気に入り」やリツイートをして頂けました。とても嬉しいです。社会的・公共的な言葉で「価値(観)」を訴求して、それに共感してもらえるのは本当に嬉しいです。

お金とかマーケティングとかのためにツイートとかブログ書いたりしてるんじゃないんです。ぼくのツイッターのプロフィールは:

ウェブ・アーキテクトです。ウェブ開発や新規事業開発の専門家として事業・サービスのプロトタイピングを実践しています。モットーは「未来のふつうをつくる」「思想を実装する」「善いことをして稼ぐ」です。ウェブ開発に関する批評や教育も。茶会人訪問を開発してます。 @chakaijinjp

となってるんですが、要するに「未来のふつうをつくる」「思想を実装する」「善いことをして稼ぐ」のが目的なんです。なので価値を訴求したいんです。べつにぼくに仕事を依頼してくれなくてもいいんです。同じ志を持つ人が増えたら嬉しい。そう、同志です。そのうえで「同志」と仕事ができることはとても素晴らしいと思ってるんです。

ぜひ反応を頂きたいです。この記事のコメント欄でも、ツイッターでも、Facebookのページでも。

リンク

補足:プライバシーについて

「匿名の消費者」から「顔の見える買い手」になることで、売り手と買い手は「のっぴきならない人間関係」になります。入替不可能な関係性です。

と書きました。ソーシャル・コマースは買い手の「匿名性」を奪います。つまりプライバシーの問題があるわけです。顔の見える関係でTENGAを買う勇気はありません。引き続きアイデンティティとプライバシーの問題についても考えていきたいと思います。

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