「デザイン思考」の神秘と欺瞞

「デザイン思考」がなぜ「デザイン手法」や「デザイン実践」ではなく「デザイン思考」なのか。「思考」の外の部分を軽視することで成立する「デザイン思考」の欺瞞について考えます。

ぼくは十年ほど前にIDEO社のトム・ケリー氏の著作に感銘を受けてから「デザイン思考」的な手法に取り組んできました。その経験から思っていることがあります。それは「デザイン思考」への違和感です。どういうことでしょうか。一緒に「デザイン思考」のプロセスを見ていきましょう。

観察・分析をもとにデザインのコンセプト(概念)をつくる作業は文字通り「概念操作」です。いわば言語的な操作、象徴(シンボル)の操作とも言えます。

でも、それをプロトタイプという形にプレゼンテーション(現前化)するところには飛躍が必要です。さもなくば「ありきたり」のつまらないものしかできませんから。

この飛躍は「発想」の際に生じます。「発想」の場としての「ブレインストーミング」(以下「ブレスト」)において飛躍が生じます。

ブレインストーミングのブラックボックス

ブレストのプロセスは、本人や観察者が細かく分析しようとしても、なかなか解明されないでしょう。その意味で「ブラックボックス」です。

なぜブレストには容易に解明されない「ブラックボックス」があるのでしょうか。それは、ブレストにおける発想の瞬間が人の心のなかで起こっているからです。

ブレストという「コミュニケーション」はシンボルの交換や操作といった理知的(インテリジェント)な「コミュニケーション」ではないと感じます。イメージ的で、反射的で、身体的で、無意識的で、カオスで、神秘的な「コミュニケーション」です。

ブレストの「発想の瞬間」を解明できる手法があるとしたら精神分析的な手法になるのではないかと思います。その意味で「無意識的」「想像的」な部分にブレストの本質があるのではないかと思っています。

属人的・非形式的・人間依存的な手法がメインストリームに?

個人の心の中で起こる無意識的・想像的な活動だからこそ、個性的・独創的・属人的な発想につながりやすいのがブレストだと思います。

もし「デザイン思考」に思想的な意義があるとしたらこれです。

伝統的西洋思想では「方程式を解くような非属人的・形式的・人間疎外的な手法」を通じて普遍的な解を導き出すことがよしとされてきました。これに対して、新たに「属人的・非形式的・人間依存的な手法」が「発見」され、「デザイン思考」として西洋社会のインテリ層に普及しつつあります。

これは近代西洋的普遍主義への(自己)批判につながるかもしれません。まだ可能性の段階ですし、「デザイン思考」一発でそんな重大な変化が起こるはずもありませんが、大きな変化の一徴候として現れているかもしれません。現在進行中ですから評価が定まりませんが、けっこう重要な出来事なのかもしれません。

「デザイン思考」の神秘性

しかし、ここには「デザイン思考」の欺瞞も隠れています。''形式化の外側にあるものを手法として形式化するという矛盾''を孕む「デザイン思考」の「本質」は、神秘的に語られるしかありません。これについては「デザイン思考」自体が悪いわけではなく、そもそもデザインという行為には神秘的な瞬間が生じるのだから仕方ありません。

しかし、「デザイン思考」という「誰にでも実践できる洗練された手法」があるかのようなプレゼンテーションは嘘っぱちです。「デザイン思考」がまるで「非属人的・形式的・人間疎外的な手法」であるのように見せかけているのです。言い換えれば「誰がやっても素晴らしい結果が出る手法」のように誤解させているのです。

このようなプレゼンテーションをする「デザイン思考」の伝道者は嘘つきです。

「デザイン思考」と修行

「デザイン思考」を実践するためには、実際には長年の「修行」が必要になります。地味な下積みで地力をつけた先に、はじめて「デザイン思考」の実践が開花するのです。つまり「デザイン思考」が「思考」法として完結しているというのは勘違いで、実際には「手を動かす実践」にこそ本質があります。

先ほど述べたように、ブレストは「言葉だけでの会話」ではなくて「身体を使った即興演劇」のようなものです。これは未体験の人がいきなりできるようなことではありません。また、ブレスト中にその場でプロトタイプを作ってみせるような即興的創作も必要です。これも「手の技能」が優れていなければ無理でしょう。

このような「思考」以外の部分を軽視することで「デザイン思考」という概念が成立しています。しかし、実践において「思考」だけで完結することなどありえないわけです。

「あなたもデザイン思考を使えばすぐに素晴らしい成果を出せますよ」というのは欺瞞です。だって、実際に「デザイン思考」を実践してもすぐに成果がでるほど簡単ではないのですから。

「デザイン思考」の権威

この「神秘的にしか語りえない」という「デザイン思考」の「本質」性は、IDEOに「バチカン」のごとき超越的特権性(神から与えられたかのような特権的な立場)を与えることになっています。

「IDEOで働いたことのないやつが語る『デザイン思考』は''本物''かどうか疑わしいよね」「やっぱり『デザイン思考』ならIDEOだよね」という権威(オーソリティ)はここからきています。

IDEOを批判しているわけではありません。むしろ尊敬していますし。ただ、「デザイン思考」について考えるとき、そこにIDEOという権威の影がつきまとうのも事実です。権威の源泉を理解していれば、その権威に囚われないことも可能になります。

「デザイン思考」を実践して、うまく成果を出せずに「なぜだろう...」「やり方が間違っているのかな...」と悩んでいるとしたら、もはや「デザイン思考」の欺瞞に絡め取られているのです。

神秘性を隠蔽して「デザイン思考」を布教された人は「神秘的な瞬間」などあるとは思わない。だからこそ逆説的に神秘主義に絡め取られる。

「デザイン思考」の形式的手法をなぞって実践していけば、あたかも「機械的」に成果が出ると思っている。そういう人はもちろん失敗します。失敗したときに「まだ自分が知らない何か」=神秘があるように思えてくる。そして「秘術をマスターした人」=権威に頼りたくなってくる。

本来は神秘的な発想の瞬間を招来するためには長年の修行が必要です。なのに、そのことが隠蔽された「デザイン思考」を実践して失敗するから、逆説的に「何か自分の知らない秘術があるに違いない」という神秘主義に陥る。

デザインに神秘的な瞬間はある。しかし神秘的な手法などない。「デザイン思考」が上手くいかないとしたら、ただ単に修行が足りないのです。「思考」の外にあるものが欠けているということなのです。

おわりに

ぼくの立場を明確にしておきます。くれぐれも誤解しないで欲しいのですが、IDEOが開発した「デザイン思考」の手法自体は素晴らしいと思ってます。Human-Centered Design Toolkitとか。でも「デザイン思考」をめぐる言説(ディスコース;語り口)は最悪だと思ってます。その責任はIDEOだけにあるわけでもない。「デザイン思考」を語る多くの人々のなかで、意図してか意図せざるかはさておき欺瞞を語る人がいる。この記事は最悪な欺瞞的言説への批判であり、人々に再考を促すために書かれました。

ゼロベース社を作る前に読み、大いに刺激を受けました。自分はこういう仕事がしたいんだと。もう何年も再読してないので、「いま読む価値」があるかどうかは分かりませんが、当時のぼくにとっては大きな価値がありました。
最初に読んだときはつまらなく感じたが、改めて読み返すと後半にかけて人間中心性に関する批評性が高く、再読に値する本だった。

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