アクセシビリティを倫理的に語ることと制度設計について

「アクセシビリティが大事だ」と人々に思ってもらうことと、「アクセシビリティが大事だ」と思わなくても企業が「金儲け」の努力をした結果として「アクセシブルなウェブ」が現れることについて。

このごろ日記感覚でお気楽に書くことにより質の低下が顕著ながらも量だけは増えているブログがこちらになります。今日もグダグダな文章を書きます。

iTunes Storeで買えない曲は「存在しない」か?

「iTunes Storeで買えない音楽は、私にとって『買える音楽』ではない」という人が増えると、これって「アクセシビリティ」の問題だと思うんですよね。DRMとかはその要素でしかなくて問題は音楽のアクセシビリティ。

んで、問題は問題として、解決策や対抗策はひとつではないわけです。「iTS以外のより自由なストアを立ち上げる」でも「iTSにすべての楽曲を入れる」でもいいわけです。アクセシビリティ問題だけ考えればね。(※もちろん「問題」はそれだけじゃないです)

ここまでが前置きでした。本題に入ります。

「アクセシビリティ」は善なのか?

アクセシビリティは無条件に善か?」というと、そんなことはありません。例えば「あらゆる書籍は電子化されるべき」っていうのが善なのか? そんなことはありえない。「紙でしか読ませたくない」という著者や出版社の決定も尊重されるべきです。自由です。

この「アクセシビリティの価値」と「ノン・アクセシブルにする自由」との緊張関係について考えないといけない。

ウェブ・アクセシビリティについて言えば、「スマホだと簡単に使える機能を、PCではあえて使いにくくしたい」という設計の意図も、当然ながら認められるべきなのですよ。

アクセシビリティの向上が常に善だとする議論は乱暴です。それを「アクセシビリティ原理主義」と言います。「原理主義」は社会の複雑な実相をただ一つの側面から切り取ってしまうので、とても間違いやすい考え方です。

「アクセシビリティ原理主義」は民主主義なら当然

政府・自治体の提供するウェブ・サービスならば、当然ながら「誰でも使える」ことを理想とするアクセシビリティの追求が政治的に要請されます。そこは民主主義の原理から言っても「原理主義」的な言説が支持される。

もちろん、予算は有限なので、完璧な実現はあり得ない。だとしても、「すべての市民が公的サービスにアクセスする権利を有する」という理念からの「アクセシビリティ原理主義」は支持できるわけです。

アクセシビリティの課題は「民間の取り組みをいかに起動するか」

ですから、アクセシビリティの倫理は、公(public)-私(private)の軸で考える必要があります。問題は私的領域の自由な活動のほうです。ウェブが全体的にアクセシブルになっていくかどうかは、大部分が民間〔=私的領域〕の活動次第です。

ですから、民間のアクセシビリティを高めることを、どのように可能にしていくか。民間のアクセシビリティへの取り組みをいかに起動するか。これが課題です。

アクセシビリティは技術の問題である前に、倫理の問題なのです。アクセシビリティに投資することを可能にする倫理的言説が必要です。人々の価値観を変えることで、民間企業がそれに適応するように。

さて、実際にどのような倫理を語ることができるか。それが問題ですね。それについては引き続き考えていきましょう。

〔追記:ちなみに後述の「制度設計」がなくても、現状でも可能性はあります。「あの大企業○○が視覚障がい者向けのウェブサイトで売上○億円!」「○○がシニア向けに専用デバイスを配って売上○%アップ!」みたいな事例が少しでもあれば、一気に広まるかもしれませんよね。マーケ戦略用語で言えば「新市場に既存商品で参入する」という形の新事業機会として人々が認識するためには象徴的な事例があればいい。「コカコーラがFacebookでファン獲得云々」みたいな事例があれば大量の真似っこが出てくるっしょ?〕

市場競争から生まれる多様なアクセシビリティ

現時点の私のアイデアとしては、「あるサービス」にあらゆるアクセシビリティの責務を負わせるのではなく、「市場競争の結果として生まれる多様性」に期待したいですね。

つまり、「あるサービス」と「別のサービス」が、異なるアクセス手段を提供することで、全体(ウェブのエコシステム)としては多様性なサービスへの多様なアクセスが提供されている。

「エコシステムとしてのアクセシビリティは高い」という状態を実現するために、しかし、個別の情報サービスが「あらゆる利用者」のためにアクセシビリティを高める必要はない。これがポイントですね。後者を要請すると、いろいろ大変で、無理なので。

こういう情報社会像を描いてみたいですね。

企業の「金儲け」が結果として「いい社会」になるような制度設計が大事

言ってみれば、「倫理なことをやれ」みたいにベタに倫理を訴えるんじゃなくて、企業が市場に適応しようと努力した結果として、いい状態になっているというようなルールにすればいい。

企業はあくまで経済ゲームをやってればよくて、そこに「倫理だ!」とか無理に突っ込んでいくと厳しい。「CSR活動」は本業と別クチだからやりやすい面があるけど、「アクセシビリティ」はつねに本業絡みの取り組みになるので、「倫理!倫理!」で訴えても変わらないと思いますね。

とかなんとか考えてみた次第です。おや、「倫理を語る必要がある」といいつつ「倫理を語っても仕方ない」という一見矛盾する論理になってますね。これは要するに語る対象とフェーズの違いです。ちょっと補足しておきますね。

  • 啓発:人々や専門家にアクセシビリティの重要性を認識して、アクセシビリティを欲してもらう。
  • 気付き:いまアクセシビリティが注目されないことにより不便している人々の存在を知ってもらう。
  • 機会:つまり企業から見ればそこには「顧客」や「市場」が発見されたことになる。
  • 投資:新たな「市場」に向けての取り組みとしてアクセシビリティに投資することになる。
  • 成果:新たにアクセシブルな情報サービスが提供されることにより、いまノン・アクセシブルで不便してる人々にとって、「ウェブ全体のアクセシビリティ」が高まる。

ポイントは

  • 従来の情報サービスのアクセシビリティが高まる必要はない。新たな情報サービスが、これまで不便してた人を「ターゲット」にすることで、新市場攻略という形でサービスを提供すればいい。
  • 企業は「アクセシビリティが大事かどうか」とかいう倫理的価値判断ではなく、単に「儲かるかどうか」という経済的価値判断で行動すればいい。多くの企業がそういう行動をした結果として「ウェブ全体のアクセシビリティ」が高い状態になる。
  • この文脈で、わざわざ括弧をつけてる「ウェブ全体のアクセシビリティ」というのは、ある人にとっての「ウェブ全体」ということ。その人にとっての認識の総体、主観的な「全体」ということ。

アクセシビリティの問題を語るときに、こういう「ウェブの主観的全体としてのアクセシビリティ」から考えた方がいいと思うですよ。ある人にとっての情報サービスの享受とか、情報環境ってのは、あくまで主観的なもの。誰も「客観的全体としてのウェブ」なんて知らないしね。「客観的全体としてのウェブ」で語る人は、じつは物事を細かく見てない。「おまえは実際に全部を見たのか?」って聞きたいですね。

という感じですね。

深くコミットしてなくても語ることに意義がある

ぼくはわりとこういう考え方をするんですが、「企業はあくまでも市場競争をしてればよくて、その結果が、人々が『倫理的』と考えるような、望ましい状態になるような、ゲームのルールをいかに設計するか」を考えたいんです。ぼくはよく「思想を実装する」っていうんですが、思想を語るのではなくて、人々がその上で動くアーキテクチャとして思想を実装する。アーキテクトってそういうものなので。

ウェブ(情報空間)を「物質空間と同等に重要な生活環境」に格上げするウェブ・アーキテクト

ポイントは、自分が作るサイトだけじゃなくて、ウェブ全体、エコシステムのアーキテクチャについても、日頃から考えるってことですね。日頃から準備していると、いざというときに、例えば制度設計とか立法とかで、貢献できるときが来るかもしれませんから。

個人的には「倫理的市場を設計する」っていうのは、政治家の仕事だと思います。政治家がプロデューサーで、ブレーンの思想家がいたりして、理論家としての経済学者とか(情報)社会学者とかがいて、実務家としての官僚やアーキテクトとかをうまく使って、「倫理的な市場」を作っていく、っていうのが政治の仕事だと思うわけです。

そんなこんなで、いろいろと語っているのですが、ぼく自身はそこまで「アクセシビリティ」にコミットしてる人ではありません。

いい意味での「アクセシビリティ厨」みたいな人たちに比べて、あんまりこの分野に貢献してないぼくが、なんぜこんなことを考えたり文章を書いたりしてるかっていうと、そういうことなのですよ。いつか飛んでくるボールを打つために素振りをしてる感じですね。

あとはまあ、とはいえ、自分の個別的な実践と、その普遍的応用可能性の、両方を意識しながら、日々の仕事に取り組む、ってことですかね。思想と手法は、目の前の課題から出てくるもんですよね。

追記

こういうのを「コミットしてない奴には何も言う資格は無い」っていう話にしちゃうと、その時点でもう閉じちゃうんですね。コミュニティや、知識のレベルが。外部との交流が進化を促進するわけで。ゆるく開かれていること、外部からの言論も受け入れることが、大事ですね。

一方で、外部の(ぼくみたいな)人間は、その領域の中心でコミットしている人々への敬意を持って言葉を発するようにしたいものです。せっかく良いことを言っていても、相手の感情を逆撫でするような言葉では、意味がないので。

リンク

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://zerobase.jp/mt/mt-tb.cgi/1135