酔っ払いがソーシャルゲームを正当化してみた

ソーシャルゲームが規制や検閲に対抗して社会的正当性を得るためにはどのような思想と言論が可能か語ってみました。

ゼロベース不勉強会 #4 「ゲーム」の石橋によるレポート。飲酒しながら議論した、あることないこと。なお、参加者の総意じゃないし、ぼくが不勉強会のあとで一人で考えたことも書いてます。

対象読者

  • ソーシャルゲーム企業の経営者

執筆の動機

  • ソーシャルゲーム企業は批判されているのに、後ろ向きな自己弁護に終始しているのが残念。
  • もし自分がやっていることに価値があると思うなら、もっと正当性を主張したらいいのに。
  • 経営者が言葉を発して、社会に価値を訴求し、過剰な規制圧力から業界を守ったらどうかな。

と思って、実際にどういうことが言えるかをデモンストレートしてみました。まあ、極端な例ですし、ぼくの考えたことに過ぎないので、このまま使えるとは思いませんけど。あくまでも社長ご自身の思想を、ご自身の言葉で語ることが大事。なので、あくまで、こういう「批評的な語り方」のデモンストレーションとしてお読みくださいな。

お断り

ある人から「まず『ソーシャルゲー=作りがしょぼいくせに稼ぎすぎ=稼ぐのは悪』という認識から脱してほしい」というご指摘を頂いたけど、そういう認識ではありませんよ。「作りがしょぼい」とも思っていないし、「稼ぐのは悪」とも思っていません。

いろんな批判言説に対する対抗言説をデモンストレートしてみたんですが、どうやら批判の部分だけ読んで、全部は読まなかったのかも。まあ、酔っ払いの戯れ言なので、仕方ないですねえ。

〈聖なるゲーム〉

役に立つゲームと、役に立たないゲームがあります。役に立たないゲームのほうがゲームらしい気がします。

ゲームが「何かの役に立つ」としたら、それは、ある意味で、不純で堕落したゲームだと言えます。それが即「ダメだ」ということを言いたいわけではないので、まあ落ち着いて先を読んでください。

「ほかの何か」によってその価値を説明する必要が無いこと、つまり「それ自体としての価値」があること。それが「至高性」です。

ゲームの至高性は、目的に従属すること(例えば「何かの役に立つ」こと)にはありません。富と時間の消尽それ自体に、ゲームの至高性があります。

ゲームの素晴らしさは「純粋な無駄である」ということです。ゲームの外に何らかの根拠を求める必要がありません。

「至高のゲーム」を〈聖なるゲーム〉と呼ぶことにしましょう。それに没頭しているあいだ時間の経過を忘れるような体験を「聖なる体験」と呼んだり。

「役に立つ」という「不純」で「堕落」した価値から、毅然として距離を保っている「純粋に無駄なゲーム」が〈聖なるゲーム〉です。

〔註:最近バタイユを読みました。カイヨワの『遊びと人間』は数年前に読んで忘れちゃいました。〕

〈俗なるゲーム〉

「何かの役に立つ」ような、ほかの価値によって従属的に価値づけられるゲームもあります。例えば「知識を得て賢くなる」とか「友達と仲良くなる」など。そういう有用性により「価値がある」とみなされるようなゲームのことです。

ここで注意しておきたいのは、これは「ゲームの属性」であると同時に、「ゲームとプレイヤーの関係性」でもあるということです。つまり、同じゲームをプレイしてても、そこに有用性を見出すかどうかはプレイヤー次第です。なので、あくまでも「ゲームの属性」と「ゲームとプレイヤーの関係性」のミックスとして考える必要があります。関係性概念であるということの意味は、「人による」ってことです。平たく言えば、感じ方は人それぞれってことですね。

〔註:「最初から平たく言えよ」と思ったあなたは正しい。酔っ払いなので許して。〕

何らかの上位の価値に従属することで価値づけられるゲームは、〈俗なるゲーム〉だと言えるでしょう。〈聖なるゲーム〉と対になる概念です。

ここで「聖」と「俗」に優劣を付ける必要はないような気がします。聖と俗がある。まずはそう分けたことに意味があります。

ソーシャルゲーム

以下の文章はソシャゲについて無知な酔っ払いの妄言ですけど。

〈俗なるゲーム〉の代表格が「ソーシャルゲーム」(通称「ソシャゲ」)です。どういうことでしょうか。次に示す文章を読んでください。『ソーシャル死ね。ソーシャルゲーム死ね。ゲームを返せ。ゲームから出てけ。』という魂から振り絞られた名文です。

僕等にとってビデオゲームは何よりも神聖なものだった。それは、ビデオゲームという名の聖域だった。人間という邪悪な生き物に出会うことなく、人生を楽しめる唯一の場所だった。この憎たらしい人生の、呪われた醜い毎日の中で、生きている事を感謝する為の、唯一無比のツールだった。ビデオゲームを遊んでいる間だけは、自分が人間である事を忘れられた。

「ビデオゲームを遊んでいる間だけは、自分が人間である事を忘れられた」という文章はグッときますね。まるで宗教的神秘体験の告白のようですね。まるで「聖なるもの」を語る言葉です。というか、これぞ〈聖なるゲーム〉なのです。

ゲーム産業の聖性

むかしむかし、ゲーム産業って、純粋な金儲けとしては、いささか不確実性が高すぎるような商売でした。株主総会で社長曰く「ゲーム事業で四半期ごとの業績にこだわるのはナンセンス」とか。ちょっと俗世から浮いてる、聖なる産業だったわけです

大人が夢とか追っちゃって、会社つぶしちゃったりしても、まあそういうこともあるある、仕方ないか、っていう許容度の高い業界だったんじゃないでしょうか。

一方のソシャゲ企業では、そういう聖性が感じられないんですけど、ぼくだけでしょうか? ものすごく生産的な工場からゲームタイトルが量産されているように見えます

カリスマクリエイターが苦労の末に発見したゲームシステムにプレイヤーが感動する、みたいな物語が見えてこない気がするんですよね。それを伝えるメディアや、それを読むユーザーって、いるのかなあ?

「ソシャゲのタイトルはどれも似たり寄ったりだ」とか「ソシャゲを作るのは簡単だ」とか言いたいわけではありませんよ。業界内の「事実」の問題ではなく、ファンにとっての報じられ方、語られ方の問題です。

そのへんが見えにくいことによって、「ゲーム産業が脱聖化されてる」ように見えてるんじゃないかなあ。そういうゲーム産業自体の聖性・物語性の欠如にイラッとしてる古いゲーマーもいるんじゃないかなあ

〔註:まあ、そういうゲーマーに媚を売る必要もないのかもしれません。彼らがイラっとする一因(の仮説)を指摘したまでです。〕

宝くじを買わずに馬券を買う人のなかには、騎手と馬の人生(馬のほうは「馬生」かな)を買ってる競馬ファンがいる、みたいな話に近いかもしれません。

競馬雑誌に馬や騎手のグラビアやインタビューが載って、それを読むファンがいる。宝くじ的には、すべてが「無駄」です。だからこそ、なぜそのような「無駄」が維持されているのか、理性的に必然性を見出すことができる

〔註:酔っ払いが「理性的」とか偉そうに語ってるメタブーメラン!〕

騎手や調教師をはじめとして、人生を賭けて競馬という壮大な「無駄」を成立させている人々がたくさんいるこの「競馬」というエコシステムは、あたかも巨大な宗教です。壮大な規模で〈聖なるゲーム〉がプレイされている。競馬そのものの競走ゲーム、騎手間の競争ゲーム、賭博ゲームといったさまざまなレイヤーで。

ソシャゲ業界も、ゲームに携わってるんだし、こういう聖性をいかに立ち上げるかということを考えてみてもいいんじゃないですかね?

ソシャゲ開発者のプレイしているゲーム

〔註:ソシャゲ業界人ではないので、事実誤認があるかもしれません。間違ってたら教えてくださいね。←語る資格なし!残念!〕

トップクラスのソシャゲ開発者達って、せま~いソシャゲ業界のなかで、「誰がいちばん優秀かを競う」っていうゲームをプレイしてるように見えます。その「優秀さ」の基準が、その人が作ったゲームタイトルの売上。だからソシャゲ開発者は「金儲け主義」的な行動をしている、と言えるんじゃないかなあ、と妄想してるんです。腐女子がBL読む勢いで妄想してます。

なので、現場の開発者にとっては「金儲け」が目的なのではなくて、「優秀さ」というスコアを稼ごうとしてるんじゃないかなあと思うんですよね。彼らがプレイしているゲームのスコアはそれ(自分が作ったゲームの売上)だから。

ソシャゲ企業は「開発者が作ったゲームタイトルの売上」という分かりやすい指標で開発者の成果を数値化することで、ゲーム開発のゲーミフィケーションを行った。「ゲーミフィケーション」については後述。

〔註:この議論は青木昌彦著『コーポレーションの進化多様性』に依拠してます。彼はサブプライムショックを招いたウォールストリートの金融業界人について語っています。その議論を応用しました。〕

イノベーションのジレンマ

でも、それを猛烈な勢いでやってると、「イノベーションのジレンマ」を爆速で呼び寄せるわけです。「これ作ったら売れる!」という自明性の外に出るゲームは作られにくいわけですから、「持続的イノベーション」に邁進してるわけです。

その結果、小さなベンチャーが「破壊的イノベーション」を起こす余地を、自ら作ってしまってる。しかし、こういうメカニズムを知ってても、競合他社を見て競争してると巻き込まれやすい。「知ってても避け難い」ので「ジレンマ」と名付けられてます(多分)。

逆のことも言えます。「イノベーションのジレンマ」への対処法としては、「いま儲からないゲーム」、つまり「いまそれ作っても『優秀さ』というスコアは獲得できないゲーム」を作ることが必要じゃないかなーと。

これは、個別のゲーム開発者のプレイしているゲームとは異なる水準で、経営者が仕掛けないといけない。イノベーションへの投資活動として。

価値を訴求し、「ゲーム」のルールを変えるストーリー

ソシャゲ業界の経営者達にお願いしたいのは、できれば、「作ったゲームの売上」とは異なる「優秀さ」の基準〔=ソシャゲ開発者がプレイしているゲームのスコア〕をデザインしてほしい、ってことです。

開発者にとっての「スコア」が「売上」でなくても、結果的に事業の成果として売上をあげることは可能です。というか多くの会社ではむしろ現場の個人の成果と売上は直結してませんし。そういう新たなゲーミフィケーション回路のリデザインを模索してほしいんです。「社会的意義のある事業活動」と、売上や利益を、両立できるように。

現場では「社会的意義のある事業活動」に取り組んでる実感を持ちながら「ゲーム開発ゲーム」に邁進できる。経営者はそこから結果的に売上や利益を得る。そのあいだをつなぐロジックは、流行りの「ストーリーとしての競争戦略」です。

会社の目的は単なる金儲けではないでしょう? 社会にどのような価値を訴求するのか考えてみてもいいのでは? そのためには、経営者が理念や価値や訴求し、それを実現していくためのストーリーを、語ることです。

現場と売上を間接化することは、ソシャゲに聖性をもたらすことにもつながります

ところで、ソシャゲは、すごく「堕落」した〈俗なるゲーム〉ですけど、情報的消費を拡大するという意味では、日本社会にとっては長期的によい可能性かもしれませんね。分かりませんが。詳しくは後述。

ゲーミフィケーション

いわゆる「ゲーミフィケーション」というやつは、ゲーム的な方法で、人を巻き込んだり、人を動機づけたり、人の意欲を持続させたりする手法ですね。

〔註:2011年くらいに出てきたビジネス用語として流行ってるっぽいですね。バズワードってやつですね。早くも「最近聞かなくなったねー」という声を聞いてます。まあ、流行はどうでもいいです。〕

ゲーミフィケーションは〈俗なるゲーム〉に似てますけど、「ゲーム」ではないですね。「ゲーム的手法をゲーム以外の分野に応用する」ということなんですが、もちろん「役に立つから」そうしたいわけで、ものすごく「俗」ですね。

ゲーミフィケーションは世俗的な生産や消費の活動を加速します。ですので、経済成長のために使うことができます。また、物質的消費を増やす方向にも、減らす方向にも使うことができます。後者の代表例は #denkimeter 2.01 beta など。

さっきの「ソシャゲ開発者のプレイしているゲーム」について言えば、ソシャゲ業界はゲーム開発という行為をゲーミフィケーションしている。ものすごい生産性が発揮されている。これは他の産業も見るべき点だと思いますね。

ちなみに、宗教法人がゲーミフィケーションを取り入れたらすごそうですね。まさしく〈聖なるゲーム〉というか。スマホアプリとか作ったりして。もうやってるところもありそうですけど。

iDenkimeter

殺人とエロティシズム

人間にとっては「日常的な生」を超えたものが「聖なるもの」として感じられるので、「死」を招くような感覚をもつ快感も「聖なる体験」になります。というようなことを言ったのはバタイユですが、彼風に言えばエロティシズムの本質はそういうところにあります。

フランス語でオルガスムスのことを「小さな死(La petite mort)」と言ったりするそうですが、彼は「墓場でのセックスが最高」とか言ってます(へ、変態だー!)。死の香る場所でオルガスムスを得ることによって、よりよく死の感覚(聖性)を招くことができるというわけですね。

ゾンビを大量虐殺する『バイオ・ハザード』みたいなゲームが大ヒットしていますね。ヒトを大量虐殺するゲームも大ヒットしてて、『グランド・セフト・オート』は累計1億本以上も売れているそうです。

ヒトには殺戮(死に触れる)の欲望がある、ってことが明白に証明されてますよね。ごく一部の変態だけだとは言えません。1億本なんだもん。

ゾンビは殺すのに便利だったから欲望されたんです。ヒトを殺すのはタブーですけど、ヒトでない存在ならいくら殺してもオッケー。「ヒトでないけど、ヒトに近いもの」を求めたら、ゾンビだったということでしょう。

ゾンビやヒトを大量虐殺するゲームは、ものすごく純粋な形態の〈聖なるゲーム〉だと思うんですよ。そういうものにお金と時間を費やして過剰を消尽することが日本社会には必要なんじゃないかなーと思ってるんです。

べつにヒトやゾンビを殺さなくてもいいけど、こういう圧倒的に無意味な、純粋に欲望に従うような消費ってのを、もっと増やしていったほうがいいんじゃないかなーと。

非物質的な消費の拡大

日本社会では生産力が余っていますね。過剰です。消費と再分配が必要です。

〔註:細かく言うと既存の生産設備を後述のような新産業に配置転換するのにはお金も時間もかかるし失業も云々って問題があるわけですがさておき未来の明るい話をしましょう。〕

再分配は極めて政治的な問題で、なかなか民間からのアプローチが難しいですね。

〔註:不可能ではないし、最近いろいろな動きが出てきてますが。〕

一方、消費は民間の努力でどうにかなる部分が大きい。ですので、消費を伸ばすことを、民間人としては考えていきたいです。

消費を伸ばすとして、物質的な消費の拡大には問題がありますね。生産〜物流〜廃棄にエネルギー消費や環境負荷が伴います。一方、情報的な消費は、エネルギー消費が少なく、環境負荷も小さいです。

〔註:もちろんデータセンターの電力消費量が巨大になってきてるわけですが、それこそ、IT×エネルギー産業、グリーンテックによる、省エネ・イノベーションの機会と捉えればいい、とここでも前向きに考えたいです。〕

ほっとくと、過剰を蓄積した国家は、それを一気に消尽するために戦争をおっぱじめやがりますね。怖い怖い。

でも、経済成長は必要です。ならば、「情報的(非物質的)な消費を増やすことでの経済成長」を考えていく方向がいいと思います。それによる新たな問題も出てくるんでしょうけど、困難のない道のりなんか無いわけで、いろんな未来の可能性から選ぶとしたら、ぼくはこれを選びたいです。

ゲームの自己正当化のための批評

『ルールズ・オブ・プレイ』っていう本に書いてあるんですけども、ゲーム産業はしばしば検閲や規制の対象になりやすい産業です。そういう「正義」に対して自らの「正義」も訴えていったほうがいいと思うんです。ゲーム業界は批評の言葉を鍛える必要があります。とくに、ウェブ業界にいるぼくにとって身近なソシャゲ業界を見てると、なんか残念なことになってるんですよねえ。。。

あ、もちろん現状維持の自己正当化じゃダメ。語ることと変わることはセットです。で、どう変わるべきかという指針も、こういう言論から見えてくる。

「レアカードとはいえ一枚に8万円...嘘だろ...」 〔画像は『【漫画つき】コンプガチャだけじゃない。ケータイSNSゲーム課金の仕組み解説 』から。〕

とまあそんなことをワインで酔っ払いながら不真面目に議論した不勉強会でございました。

この文章は、ゲーム産業の正当性を訴求する批評の可能性をデモンストレートしてみたものです。ソシャゲ業界人(とくに経営者)は疑問があったら質問してくれ!とか思ったりします。議論しましょう。あ、文章じゃなく、対面でね。

この文章の内容に対するあなたの評価(「正しい」とか「正しくない」とか「説得されない」とか)は、この際どうでもいい。このように価値を訴求しうる、という言論手法のデモンストレーションなので。だから、同じような「批評というスタイルのストーリー」で、異なる結論に至ることも可能です。結局は何を言いたい(訴求したい)か、思想や哲学の問題です。

ソシャゲ業界の経営者さん。ぼくは、あなたの思想に興味があります。

あなたの哲学はなんですか?

「何言ってんだ」と思われても仕方ないですけど。なんせ酔っ払いなんで。てへぺろ。

追加情報

gumiの國光さんは語れる人。素晴らしい。

「最近、ソーシャルゲームの健全性が世間から叩かれているところがあります。これに関しては、業界全体で協力し合い、ダメなものはダメ、いいものはいいと決めて、社会に認めてもらえるようにするべき」と、ソーシャルゲームの健全性について話し始めた。 via “天地人”が揃ういまこそ世界へ出よう! gumi 国光宏尚氏が目指すは”打倒!Zynga”【OGC 2012】 [ファミ通app]

裏番組とも言えるアフターセッションは、途中 KLab株式会社 代表取締役社長CEO 真田哲弥氏を交じえ、普段は語られないソーシャルゲーム運営のノウハウから、社会的意義にまで発展。日本から世界に、日本の未来を支えられる力を共にリードしていこうという話になった。 via ソーシャルゲーム業界キーマンが社会的意義を語る【増田 @maskin】 #IVS | TechWave

国内で急成長を果たしているソーシャルゲーム・プロバイダーgumiの代表、國光宏尚(38歳)は、そんなソーシャルゲームの状況を慮ってか、「いま、この業界の社会的意義について語ろうとする人は少ないんですけどね」という言葉とともに、席に着くやいなや、この業界の社会的意義を語り出した。 via 「次代を担うIT起業家」4人の肖像 [1] gumi社長・國光宏尚 | 経営・リーダー | PHPビジネスオンライン 衆知|PHP研究所

関連図書

p.211 余剰の消費は、無益なものであればあるほど呪われ、罪悪視されている。その結果、余剰は戦争という最も悲劇的な形式で蕩尽されるほかはなくなっている。
この悪循環を断ち切ること、これが『呪われた部分』においてバタイユが実践面で主張している最大の要求である。それ故、例えば、「普遍経済学は、適切な処置として、アメリカの富をインドへ無償で譲渡することを提案する」。

非生産的消費としての国際経済援助政策の必要性。

「世界全体をいつ爆発するかも知れぬ巨大な火薬樽に変えてしまったこの前提のない蓄積を、_戦争なしに_消尽することが重要な問題なのだ」
各人が至高性の意識を持たねば戦争は回避できない。

「エロチシズムとは死におけるまでの生への称揚である」

労働と比較すると侵犯は一つの遊びなのだ。遊びの世界では哲学は解消する。哲学に基礎として侵犯を与えること(...)、これは、言語を無言の凝視に置き換えることである。_これは、存在の頂点で存在を凝視することなのだ_。
p.181 たとえば、2008年の金融危機が勃発したプロセスにおいて、ウォール・ストリート、シティといった金融街でベスト・アンド・ブライテスト(超一流の人材)とみなされていた人々は、ハイリターンのデリバティブ商品の開発という仕事に表象された高い社会的地位をめざして競い合った。彼らの「強欲」ぶりが、結果的に悲惨な帰結をもたらした元凶としてしばしば非難される。そうした強欲ぶりとは、このケースでははたして何を意味したのだろうか。クオンツと呼ばれたファンド・マネージャー間で展開された競争は、金銭的利得のあくなき追求という単なる経済的競争ではなく、名声、畏敬、嫉妬などといった感情的利得をもたらすような能力・知性の顕示という社会関係的競争でもあった。かくして彼らにとっては、追加的に数百万ドルのリターンを生み出すということ自体はもはや大した問題ではなかったのかもしれないが、こうした社会関係的なラット・レースには上限はなかった。ファンド・マネージャーの報酬が彼らの短期的な運用実績によって評価される、という経済取引ゲームのルールによって、社会関係ゲームにおける彼らのラット・レース文化がもたらされた一方、社会関係ゲームをプレイすることによって、経済リスクを内生的に拡大するような経済行動を選択させる動因が生じたというように、経済取引ゲームと社会関係ゲームは連結されていたのである。最大のあやまちは、インセンティブ契約のデザインにあったといえるかもしれないが、いくつかの主要金融機関の目をみはるほどの大失敗が生じた理由は、そうした文化にとりこまれてしまった人々のマインドセットにあったともいえる。これは、ゲームの安定性を根底から揺るがす自己破壊的効果をもたらした不安定なフィードバックの一例である。
伊藤ガビン氏の名文に感動した。

> メディア芸術は徹底的にひまつぶしの道具であり、さらに結論めいたことを言ってしまえば、人生そのものがひまつぶしなんだから、どんどん身の回りがひまつぶしだらけになってイイネ!イイネ!イイネ!とイイネボタンをバカのように押せ!押して押して死んでいけ!と思っているわけなんです。

> 面倒くさいので詳しく書きませんが、生存のための行為、みたいなのから離れれば離れるほどひまつぶし度が高まるなーって感じがします。

> 昨日言ってたことと違うから、間違ってたなら間違ってたと認メロー!とか。
> そんなの知らないよ、って思うんですよ。昨日のオレと今日のオレが同じだと思ってる方がおかしなことですよ。そんなにオレは一貫していない。

> このどんどん言質を取られていく感じとか非常にマズイ。逃げたい。

> どのひまつぶしも等価だ。

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