人間中心デザイン(HCD)と活動中心デザイン(ACD)の併用へ向けて

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この記事は専門的な独り言(五七五)

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例えば「HCD って聞いたことある。なんとなくどんなことをするのかは知ってる」ようなレベルの人にきちんと説明する必要もないような話なので、分かる人にだけ分かればいいから、丁寧に書き直す気はありません、とあらかじめお断りしておきます。

製品のデザインを決めるのは技術であり、技術によって人の活動も決まってくるというわけだ。人間中心デザイン(HCD)はデザイナーの十八番だが、各人のニーズに合わせたデザインを重んじるHCDは、世界中の何百万という人々を相手にしたら、正直うまくいかない。そんな大勢のニーズを正確に見きわめるなんて無理だ。だから私は、HCDではなく、活動がデザインのあり方を決める「活動中心デザイン(Activity-Centered Design)」をしようと訴えているのである。

ドン・ノーマンの「活動中心デザイン(ACD)」をめぐって « IA Spectrum

「ユーザー中心デザイン」(UCD: user-centered design)って「平均値ユーザー」「ゴムのユーザー」をやめようって話で「ペルソナ」という平均値モデルを再導入してるから理論的には矛盾してるんだよな。

〔※2012年11月26日追記:ノーマンの「ユーザー中心デザイン」のなかにクーパーの「ペルソナ」を位置づけるという文脈では大きく間違ってないと思うんですが、ごっちゃにしてしまってる表現なので、念のため補足しておきます〕

エスノグラフィからペルソナを作る利点は共感性の保存だが、統計的妥当性は欠落。統計的行動中心設計(sACD)と人間中心設計(HCD)を組み合わせて。それぞれ「動物/ビッグデータ」「人間/ペルソナ」に対応。

ログデータから特定の文脈における支配的・代表的な行動クラスタを見つけて、各クラスタのユーザー像を明らかにする。行動からユーザー像をアドホックにモデリングする。そのユーザー像がペルソナと一致しなくてもいい。ペルソナを更新する必要もない(もちろん更新してもいい)。

統計的ユーザーモデルとエスノペルソナの両立・併用においては、妥当な併用法が課題だ。ヒトの動物の側面と人間の側面の片方に引きずられすぎないために相反する二つの道具を併用する。

設計において動物的・無意識的・行動的データを定量的に活用することと、人間的・意識的・言語的データを定性的に活用すること。『一般意志2.0』を読んだ人には分かる話。

その併用を可能にするアーキテクチャとして『一般意志2.0』では「議場+ニコ生」が提案された。HCD + sACD の併用を可能にするアーキテクチャは何か。例えば、「左手にペルソナ、右手にデータ解析ツール」とか。

以下、デザイン論を離れて。

万人が良いと言うデザインが、政治哲学的な意味で「社会を変えた」ことはあるんだろうか。柳宗理のスツールやキッチンウェアは、万人が良いと言うデザインかもしれないが、前述の意味で「社会を変えて」はいない。デザインの問題ではなく、政治の問題として。

人間的な設計は政治的になりやすいので万人受けしにくい。アーレント的な意味で。政治で満場一致がないように、満場一致の人間的グッドデザインもない。しかし、満場一致の動物的グッドデザインはありえる。フォークの歯は四本がいいのだ。

「人工物と政治」はデザインと政治哲学や社会学のトランスディシプリンで研究してほしいテーマ。クリッペンドルフのデザイン論『意味論的転回』は政治的な文章だった。

(追記)

ペルソナ法は個人主義、アドホックペルソナ法は分人主義。

(※注意:ここでいう「アドホックペルソナ」は、この記事にあるような意味ではなく、この文中で既出の意味。つまり、あるデータ分析のコンテキストに限定して、行動からユーザー像をアドホックにモデリングしたものを「アドホックペルソナ」と呼んでいる。紛らわしいからそのうち新しい名前を与えることにしたい)

「ペルソナ」はコンテキストを超えて一貫した「個人」という人間観(で言い過ぎだと感じるなら「ユーザー観」でもいい)。

平野啓一郎著『私とは何か――「個人」から「分人」へ』を読んだら、このトピックについてフォローしたい。

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