受動的な「ソフトウェアが作り替える我々の社会」から、能動的な「我々がソフトウェアで作り替える社会」へ

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ソフトウェアが社会全体に普及する「情報化」は、社会のルールそのものに変更を迫る。その変化に対して、単に受け身に流されるのではなく、より良い社会に向けて能動的に行動していくことが大事だ。原因となる「変化」を起こしているのも人間なのだから。

ソフトウェアで概念を処理するためには、概念の輪郭を明確に定義し、境界線を引かなけれならない。簡単に言うと、システムの「内」と「外」を分ける厳密な基準を作ることだ。これはニクラス・ルーマンが社会システム理論で「二値コード化」と呼んでいる行いに等しい。

(参考:『ソフトウェアシステムについてルーマンの社会システム理論を使って考えてみた』)

コンピューターが社会に浸透していく「情報化」は、人間の世界認識に影響をもたらす。概念の境界線が明確になることで、曖昧さが排除される。これまで曖昧な基準により円滑に回っていた人間社会に、異なるルールが持ち込まれることになる。そこに軋轢が生じる。

このような問題の代表的な論者がローレンス・レッシグだ。レッシグは、著作物の使用に関する曖昧なルールである「フェア・ユース」と、厳密なルールである DRM (デジタル著作権管理)の狭間で起こる問題について論じた。

それにとどまらず、レッシグは、ソフトウェアの導入が人間社会に新しい「ルール観」を迫る事態全般について、抽象的なフレームワークを提示して論じた。その代表的書籍『CODE』(現在はバージョン 2.0)は、情報社会を論じる上で必読の一冊になっている。

社会の情報化により顕在化する問題には、ソフトウェア・システムによる「曖昧さの排除」により引き起こされるものが少なくない。

これは「コンピューターは融通が利かないから問題だ」などという話ではない。新しいルールに適応した未来の人類ならば、その新しいルールのほうを望ましいと考える可能性があるのだから。

「良い」「悪い」以前に、まずは「異なるルールが導入されつつあり、それはおそらく不可避なのだ」という認識から出発しよう。これは今を生きる我々にとっての、現代的な問題だ。問題は生きているから、刻々と変化する。議論している間に前提が変わることも珍しくない。

情報化の進展による社会のルール進化が「おそらく不可避」だからといって、成すがままに受け身でいればいいというものではない。より良い情報社会のあり方について考え、語り、議論しながら、自分たちの手で作っていくことができるはずだ。

原因となる「変化」を起こしているのも人間なのだから。

ソフトウェアを使って、より良い社会に作り替えていきたい。そのほうが前向きで素晴らしい。

開発者は、思想と言葉を大事にしよう。開発者以外を議論に巻き込もう。

開発者ではない人は、情報化に関して懸念があれば、その疑問を当事者(推進者・開発者)に対して率直にぶつけてみてはどうだろうか。あるいは、シンポジウムなどの場に開発者を呼んで議論してもいい。

おおむね、開発者は「理系」なのだが、こういう「文系」の話に巻き込んでいく必要がある。

「文系」「理系」を超えて、情報化について考えながら、開発していきたい。

かつての環境問題から学べることも多いのではないかと思っている。いま起こりつつあるのは「情報環境破壊」だ。インフォメーション・アーキテクト(情報建築家)が建築家に学べるならば、情報環境問題について環境問題から学ぶこともできるはずだ。例えば「公害の街」から「環境都市」へ転身を遂げつつある水俣に。

領域を超えた交流によって、より良い情報化を推進していこう。

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