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電子書籍を作るなら、電子メディアのための書籍をデザインしたいものです。紙の書籍を模した、名ばかりの電子書籍が多い。残念だと思いませんか?

 私自身iPadを使ってみて気づいたのだが、新聞や雑誌を読むのに気の利いたアプリケーションなど必要ない。画面が小さいiPhoneの場合は、アプリで利便性が格段に高まる。だがiPadの画面は十分大きくて明るい。ネットへの接続環境さえ良好なら、どんな出版物もアップルのブラウザ「サファリ」で読むのが一番だろう。

 バニティ・フェアやタイムのiPad向け電子雑誌は、ページをめくるという時代錯誤を復活させようとしているだけだ。

iPadは新聞も雑誌も救わない | ニューズウィーク日本版

ページをめくる

「ページをめくる」という行為について考えてみましょう。

下の3枚の写真は、ページめくり中の写真です。8-9ページの見開きをめくって、次の10-11ページに移る過程です。紙の本では、見開きの左側(下の写真では9ページ目)の最終行と、次ページの最初行が、同時に視野に入りません。ですが、その2つの行は連続しています。本来は、同時に視野に入るほうが望ましいでしょう。

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ページをまたぐ長文を理解するために、何度も右へ左へとめくり直した経験はありませんか? この不自由は、両面印刷という紙メディアの制約によるものです。ある文字を境として、連続した文章が、紙の表と裏に分断されているからです。

「ページをめくる」という行為には、改善の余地があるのではないでしょうか。紙メディアの制約とは関係がない電子メディアで、なぜ「ページをめくる」ような設計をするのでしょうか? 妥当な理由があるのかもしれません。しかし、とくに無いのであれば、よりよい設計を模索することもできます。

ページを滑らせる

例えば、GoodReader for iPadのDouble-Pageビューは示唆的な例です。ページをめくるのではなく、滑らせます(スライド操作)。下の3枚の写真は、ページを滑らせている最中のスクリーンショットです。8-9ページの見開きを右に滑らせて、次の10-11ページに移る過程です。

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〔注:滑らせるにも二通りの方法があります。フリック(はじく)なら一瞬でスライドが完了します。ドラッグ(ひきずる)なら自分の指で制御できますから、時間をかけてゆっくり滑らせることもできます。本稿の考察ではドラッグ操作を前提にしています〕

GoodReader for iPadのDouble-Pageビューにおいては、ページ移動の際に、前ページ最終行と次ページ最初行の両方が同時に視野に入ります。読みが途切れず、ページをまたいで連続的に読み続けることができます。

〔注:横書きの書籍なら(後述のように)縦スクロールで読むのが適していると考えます〕

ページにより視野が分断されないのは、まるで巻物のようです。もちろん縦書きと相性が良い。千年前から日本人は知っていたというわけです。さて、現代の日本人として、電子媒体で縦書きをどう読むか、考えたいですね。西欧人頼みや、無批判な輸入ではなく。

内容(コンテンツ)に適したインタフェイス設計

GoodReader for iPadのDouble-Pageビューは、紙メディアと電子メディアの違いを考えるための一例です。このような設計が無条件に良いという主張ではありません。適材適所です。本稿では「紙メディアに縛られない発想で電子書籍をデザインすること」についての示唆が得られる例として紹介しました。

本稿の「縦書きの書籍を電子化した場合、ページをめくるよりも、滑らせるほうが読みやすい可能性がある」という考察は、文章主体の書籍を前提としています。見開きで図版のように見せる雑誌には該当しません。文章主体だからページによる分断が問題になるのであって、ページ毎に独立した図版にとって「ページによる分断」という問題はありません。

インタフェイスの設計は適材適所です。コンテンツを「どう読んで欲しいか」というユーザー体験デザインありきの適材適所です。

書籍概念の解体

ここまでは書籍の電子化を想定した考察でした。それに対して、最初から電子媒体で読まれることを想定して書かれた電子書籍もあります。以下は、それについての考察です。

最初から電子媒体を想定した文章は、ページに割り付けられている必要がありません。ページという概念が不要です。ページのない文章を連続的に滑らせて読む行為は、(冒頭の論者が挙げたように)Safariブラウザでウェブページを読む行為に近い。〔注:もちろん、縦書き文章を横に滑らせるのではなく、横書き文章を縦にスクロールして読むという行為を指しています〕

果たしてそのようなものを「書籍」と呼ぶかどうか。

 今日の若い世代、つまり未来の一般的消費者はケータイで新聞記事や小説を読むのになんのためらいもない。同様に今からそう遠くない未来にすべての書籍が電子化されたあとに生まれてくる子供たちは、紙がめくれるようなインターフェースに何の価値も認めないだろう。テキスト中心の知的生産物が電子書籍という形を取る必然性をまったく感じなくなるだろう。電子書籍のファイル形式のe-pubである必要はない。ウェブの表示言語であるHTMLでよくなる。電子書籍はウェブに同化する運命にあるのだ。

電子書籍は紙へのノスタルジア=いずれウェブに同化する【湯川】 : TechWave

ページという単位に縛られない横書き文章として、すでにウェブページがあります。そのための技術として、HTMLとブラウザがあります。すでに利用できるそれらの発展において「電子書籍」が意識されるかどうかはともかく、結果的に「電子書籍」に引導を渡す存在に発展する可能性はあるでしょう。実際にそうなるかどうかはともかく、あり得るシナリオの一つとしては。

関連記事:

Adaptive Path Blogの紹介です:ユーザー体験デザイン(UXD)とアジャイルシステム開発には共通点が多い。この接近に関係しているのは、従来の「エンジニア」「デザイナー」という肩書きにとらわれない職能のハイブリッド人材が増えてきたことだ。ハイブリッド人材は、分業を前提とした方法にとらわれる必要がなく、UXDとアジャイルを自分の中で融合させる。

英語の原文はこちら:UX Design Agility


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ウェブタブレットという〈チープなオモチャ〉が破壊する家庭用PC市場」では「安くて使いやすい〈チープなオモチャ〉」が新市場型破壊のイノベーションになると考えました。では、その〈チープなオモチャ〉は、どうやったら作れるのでしょうか。一緒に考えてみましょう。

前提知識

価値は製品に属さない」「ウェブタブレットという〈チープなオモチャ〉が破壊する家庭用PC市場」を未読であれば、本稿の前にご一読ください。

イノベーションのジレンマ

製品にとって、「既存消費者」と「無消費者」の要求は異なります。既存消費者が重視する機能を、無消費者が欲しないことがあります。

しばしば製品企画者は「あらゆるニーズに応える単一の製品」を企画します。それは「既存製品への機能追加によって、無消費者を取り込もう」という企みと一緒になって、製品の高機能化を招きます。

そうして高機能化した製品は、しばしば高価で使いにくいものになりがちです。それに対し、破壊的イノベーションは、しばしばシンプルで使いやすい製品によって成し遂げられます。「持続的イノベーションによる性能向上が、他社による〈破壊〉への隙を作る」という〈イノベーションのジレンマ〉が起こります。

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〈チープなオモチャ〉の作り方

新市場型破壊を実現するほど「安くて使いやすい〈チープなオモチャ〉」は、どうすれば作れるのでしょうか。既存市場の声を聴かず、無消費者にとっての価値に集中することです。〈イノベーションのジレンマ〉の対極です。

「無消費者にとっての価値に集中する」とは、無消費者にとって不要な機能を大胆に削り、無消費者に集中したシンプルな設計にすることです。それによって「低価格」と「使いやすさ」を両立させます。機能を削ることによって、開発投資と製品原価を下げると同時に、シンプルで使いやすい製品にします。つまり「安くて使いやすい〈チープなオモチャ〉」です。

〔注:製品の要素を「大胆に削る」ことを推奨する〈ブルー・オーシャン戦略〉との共通点があります〕

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無消費者という不定形な対象

〈チープなオモチャ〉を作るためには「既存市場の声を聞かず、無消費者にとっての価値に集中すること」だと考えました。ここには未解決の問題があります。「無消費者」とは誰でしょうか。どのような状況に置かれているのでしょうか。無消費者を具体的に考えないままでは、機能の要不要を検討できません。

無消費者は同質の人々の群れではありません。単に「既存消費者以外の人々」という意味に過ぎません。無消費者にも様々な人がいるので、「無消費者」と十把一絡げにできない。無消費者は不定形で、取り扱いようがない。

デザイン思考による無消費者の特定

デザイン思考は「無消費者」を特定し、見えるようにします。「特定」とは、「無消費者の中でも、特にどのような人々に集中すれば、より大きな事業機会になるのか」を探索した成果です。「見えるように」とは、「製品についての意見を聞く対象」として、実在の人物であるかのように消費者像を具体化することです。〔注:人間中心設計という製品開発方法、とくにペルソナ/シナリオ法などの適用〕

「無消費者」は、もはや不定形の存在ではなく、具体的に想像できる〈私〉になります。そうなると、

  • 〈私〉が製品を受け入れる状況
  • 〈私〉と製品の関係
  • 〈私〉が製品に与える意味
  • 〈私〉にとっての製品の価値

などについて考えることができます。「無消費者」が具体的な「人間」として見えれば、人間中心設計の方法で「無消費者にとっての価値に集中すること」ができます。もちろん「既存市場の声を聞かず」に。

まとめ

デザイン思考によって「無消費者」を具体化し、人間中心設計によってシンプルな製品を設計することが、新市場型破壊を可能にする〈チープなオモチャ〉の作り方です。私なりにこう考え、日々実践しています。一緒に考えてくださって、いかがでしたか?

ウェブタブレットはPC市場を〈破壊〉する可能性が高いと考えています。そこにどのような傾向(力学)が作用しているのか、一緒に考えてみましょう。

ウェブタブレットの将来

スティーブ・ジョブズ氏は「いずれPCを必要とする人は数人に一人になる」と言います:

 「例えば、この国が農業国だったころは、車はすべてトラックだった。農場で必要なものだったからだ」と同氏は言う。都市部が広がるにつれて乗用車が普及し、さらにパワーステアリングやオートマチックトランスミッションが広まった。

 Jobs氏は、「PCはトラックのようなものになるだろう」と述べる。同氏は、「PCはすぐにはなくならない」と考えるが、「PCを必要とする人は何人かに1人」だけになるとしている。

S・ジョブズ氏が語る「ポストPC時代」、Flash、グーグル--D: All Things Digital - CNET Japan

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私も同意見です。家庭においてPCを使う人は「数人に一人」になるでしょう。職場からPCが消えるのは、考えられないくらい先になると思いますが。

ウェブタブレットが家庭においてPCを追い出していくとしたら、それはどういう過程になるでしょうか。クリステンセン教授の〈破壊的イノベーション理論〉をもとに予見してみましょう。

PC市場のローエンド型破壊

いずれウェブタブレットの価格は2万円≒200ドル程度まで下がり、爆発的に普及するでしょう。〈破壊的イノベーション理論〉においては〈ローエンド型破壊〉と呼ばれる現象です。

すでにPCでウェブを活用している人々の多くが、「自宅にPCは必要ない」と手放して、ウェブタブレットだけの生活になるかもしれません。

ただし、現時点では普及の障害があります。PCユーザーは、PCと比較してウェブタブレットの出来ないこと(欠陥)に着目します。最初は手を出さないPCユーザーも多いでしょう。

ウェブタブレットは、普及につれて低価格化と高性能化が同時進行します。いずれPCユーザーも満足できる性能が、低価格で実現するでしょう。その過程でPCユーザーにも普及していきます。

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PC市場の新市場型破壊

ウェブタブレットを買うのは、PCユーザーだけではありません。PCを持っていない〈ノンPCユーザー〉たちも買うでしょう。PCの〈無消費者〉たちが、ウェブタブレットの初期の売上に貢献するでしょう。〈破壊的イノベーション理論〉における〈新市場型破壊〉です。

〈ノンPCユーザー〉がウェブタブレットを買う条件として、十分に使いやすい必要があります。それは、エキスパートの手を借りることなく、自分一人でも「買ってきて、箱から出して、すぐインターネットにつなげられる」といった手軽さです。

このような条件(使いやすさ)は、まだ実現されていません。現在唯一といえるウェブタブレット製品のiPadについて言えば、第一に、Flash Player非搭載のiPadで閲覧できないページが多数あります。第二に、「iTunesをインストールしたPC」と同期せずに単体で利用する場合、購入当初の期待を満足できない可能性が無視できません。この二つの課題が解消されれば、iPadは〈ノンPCユーザー〉にとって、もっと受け入れやすいものになるでしょう。

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チープなオモチャ

ウェブタブレットを「実用的ではない〈チープなオモチャ〉」と呼ぶPCユーザーがいます。その一方で、「欲しい」「私にも使えそう」と期待を隠せない〈ノンPCユーザー〉もいます。このように既存製品を使いこなす人と、そうでない人で評価が分かれるのは、破壊的イノベーションに典型的な現象です。

PCユーザーは、PCとウェブタブレットを比較して、出来ないこと(欠陥)を気にします。一方で、〈ノンPCユーザー〉は(PCという)比較対象を持ちません。主にその魅力にクローズ・アップします。「ウェブタブレットが〈私〉の生活にもたらす価値」が魅力です。

「〈無消費者〉が喜ぶ〈チープなオモチャ〉こそ、新市場を創出すると同時に、既存市場を破壊する」というのが〈破壊的イノベーション理論〉の含意です。〈チープなオモチャ〉という言葉は、「素人でも買える値段と、素人でも使える程度の低機能」という専門家による揶揄です。その「安さ」と「使いやすさ」こそ、〈無消費者〉の求めるものであり、それゆえ新市場型破壊の起爆剤となります。

破壊的イノベーションを〈チープなオモチャ〉と揶揄する既存消費者がいれば、価値を見出す無消費者もいます。どちらの価値評価が正しいのか、と問う意味はありません。価値は製品の属性ではなく、〈私〉と製品との関係から立ち現れます。したがって、〈私〉にとっての価値と、誰かにとっての価値は異なる。新市場型破壊とは「無消費者である〈私〉」と製品との「新しい関係」を作り出すことです。

製品の開発者や提供者は、製品を中心に据えて考えがちです。しかし、製品は消費者や利用者に出会ってはじめて意味を持ちます。製品と、一人ひとりの〈私〉たちとの関係のなかに、価値が見出されます。価値は〈私〉の認識であり、〈私〉による製品への意味付けです。

価値は製品に属さない

使いやすさのイノベーション

私がカフェでiPadを操作していると、素敵な年配のご夫人が「それがiPadっていうの?」と声をかけてこられました。「それで本も買えるのよね?」などと強い関心をお持ちで、しばし質問されました。その目には「〈私〉の生活に新しい価値をもたらしてくれるかもしれない製品」への期待が溢れていました。

NHK教育「趣味悠々」パソコン講座で12年間講師を担当なさってきた佐々木博氏の発言は、このようなウェブタブレットの可能性を端的に指摘しています:

いままでコンピュータで「何かをやりたい」と思っても、そのために「電源の入れ方」「マウスの触り方」「キーボードの触り方」などを勉強しないと、メールもインターネットも出来なかった。しかし、iPadのような新しいデバイスでは、電源を入れれば、すぐメールを見たりできる。マウスやキーボードを触らなくても、指で画面を触るだけで操作できる。そういった一つずつの煩わしいものを全部なくして、いちばんやりたいことだけに集中できるというのが、iPadのようなデバイスの魅力。

YouTube - 東京ITニュース 様々な業種が注目するiPad KORGとPC創造教育

「今まで手が届かなかった製品」を遠ざけているものは、「高い値段」と「とっつきにくさ(使用に必要な知識体系)」である場合が少なくありません。そのようなとき、「安くて使いやすい〈チープなオモチャ〉」が〈無消費者〉に受け入れられます。こうして新市場を開拓し、普及とともに高性能化する製品は、いずれ既存市場を〈破壊〉します。

おわりに

このようにして〈チープなオモチャ〉であるウェブタブレットが家庭用PC市場を〈破壊〉していくでしょう。アップルiPadに対抗して、グーグルAndroid搭載ウェブタブレットがPCメーカー各社から発売されることによって、この〈破壊〉は実現するはずです。ひょっとしたら、新興ベンチャー企業がウェブタブレットとともに急成長する過程で、既存PCメーカーの市場を破壊する、といった構図になるかもしれません。

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「人々のため、よりよい社会のため」と思って専門家が蓄積してきた知識は悪用される可能性があります。これは不可避な現実です。「デザイン」の領域も無縁ではいられません。

善意の科学者が発明した成果を悪者が利用する。SFによくあるテーマです。現実に起こっていることでもあります。サイバー攻撃から情報を守るためのセキュリティ技術が発展することで、サイバー攻撃技術がさらに発展してきたように。

Facebookの「プライバシー問題」

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具体的な話をします。米国におけるFacebookの普及率は日本と比較にならず、その社会的存在感は大きなものとなっています。Facebookが人々のプライバシーをどのように保有・管理しようとしているかに注目が集まっています。

ユーザーエクスペリエンス(ユーザー体験、略してUX)コンサルタントAdaptive Path社の創業者であるJesse James Garrett氏は「これはFacebookに進言する人々自身が言うようにプライバシーポリシーや機能の問題なのではない。ユーザーエクスペリエンス上の問題なのだ」と言います。

NYTimes誌によると、Facebook上で自分のプライバシーを適切に制御するためには50画面にまたがる170個のオプションで設定する必要があります。Facebookは「ユーザーによる細かい制御を可能にするため」だとしています。

下図を見ると、「ユーザーによる細かい制御を可能にするため」という説明は悪い冗談に思えてきます。

(下図の原寸大:Facebook Privacy: A Bewildering Tangle of Options - Graphic - NYTimes.com

凡例:

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上から訳すと:

  • Facebook上のウェブページ
  • サブカテゴリ
  • プライバシー設定オプション

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注:

  • 下図左はFacebookのプライバシーポリシー記述の量が年々増えてきた様子を示しています。
  • 下図右は他のソーシャルネットワークとFacebookのプライバシーポリシーを語数(ワード・カウント)で比較したものです。合衆国憲法(ただし修正条項抜き)より多い語数。

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この図で暗示されているのはプライバシー設定の過剰な複雑さであり、情報アーキテクチャ上の問題だとGarrett氏は言います。「情報アーキテクチャ」とは「複雑な情報を分かりやすく伝えるための技術」(長谷川敦士『IA100』)です。

悪玉ユーザーエクスペリエンス

dark-ux-5.jpgGarrett氏は以前から「悪玉ユーザーエクスペリエンス ("black hat" UX)」という懸念を表明してきました。我々が蓄積してきた『ユーザーの利益になる体験を作り上げるための技術』は、悪用される可能性がある。セキュリティがサイバー攻撃に使われうるように。

  • 物事を明確にするための方法は、物事を曖昧にするためにも使われうる。
  • 物事をはっきり見えるようにするための方法は、物事を隠すためにも使われうる。
  • 人々の行動を可能にするための方法は、人々の行動を抑圧するためにも使われうる。

我々「ユーザー体験(ユーザーエクスペリエンス)」の専門家達は、このような危険に対してあまりにも無知だったのではないか、とGarrett氏は懸念を表明します。

Facebookが「悪玉アプローチ」を採用したかどうかについてGarrett氏は確信を持っているわけではないと言います(私もです)。Facebookはプライバシー設定をもっと簡単にする方針を発表しました。これまでの過剰に技術志向な情報アーキテクチャから、より現実のユーザー行動・ユーザーニーズに即したものになっていく可能性はあります。ユーザーニーズとは、自分のプライバシー情報を自分でコントロールしたいというニーズです。

Garrett氏の記事:adaptive path » blog » Jesse James Garrett » Facebook and the User Experience of Privacy

ここまでGarrett氏の論を紹介してきました。最後に私(石橋)自身の考えを述べます。

アーキテクチャによる支配

情報アーキテクチャやユーザーエクスペリエンスの専門知識を持たないユーザーは、その設計意図を知らないまま、ウェブサイト上を「悪玉ユーザーエクスペリエンス」の意図する通りに行動します。一見して「自分が誘導されている」ことに気付かない。「善玉」なら「おもてなし」と呼ばれます。しかし「悪玉」ならどうでしょう?

哲学思想・社会学の文脈で「アーキテクチャ」といえば、しばしば「不可視な支配機構」を指します。「ルール(規則)」と「支配する」は同じ英単語(rule)であることを確認しておきましょう。人々にルール(規則)を課すことができるのは権力者や支配機構です。「ルールを課すこと」と「支配すること」は同じ意味です。国家権力がユーザーエクスペリエンスや情報アーキテクチャの技術を用いて、人々に容易には意識されない方法で、その行動を誘導するとしたら?

dark-ux-6.jpgGarrett氏は、ユーザーエクスペリエンスの専門家達がプロフェッショナルとしての職業倫理を持つべきだ、と考えているようです。もちろんそれはそれで大事です。しかし、必ず悪い奴(ダークサイドに堕ちる奴)は出てきます。だから、専門家ではない人々が身を守る方法を模索したい。ところが、アーキテクチャの性質からいって、専門家でない人々にとってそれは「不可視」なのですから、「専門家ではない人々が身を守る方法」は難しい。「知識を身に付ければいい」というのは、あまり良い解決策とは思えない。誰もが幅広い分野の「専門家」になるべきだ、ということであって、社会的コストが高すぎる。となると、アーキテクチャを法規制すればいいじゃないか、という話になりがちですが、それも安易であって、人々の創意工夫やイノベーションを殺します。さらに一つ付け加えれば、「良い技術」「悪い技術」といった技術そのものへの価値判断は危険です。「技術の良い使い方」「技術の悪い使い方」があるだけで、技術そのものではなく、あくまでも人の問題です。

私は性急な結論を望みません。批評家・哲学者の東浩紀氏が「情報自由論」に書いたように、慎重で思慮深い議論を積み重ねていく必要があると思います。これはユーザーエクスペリエンスや情報アーキテクチャの専門家だけの問題ではない。ましてや法規制の問題でもない。私たちがこの情報化が進む社会の将来をどうしたいかという、社会の根幹に関わる問題です。安易な結論など出せるわけがない。考えていきましょう。

もっと深く考えたい方へ:波状言論>情報自由論

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